一揆、流罪、毒殺未遂…歌舞伎や講談の題材にもなっている「加賀騒動」の実態 (2/3ページ)
ちなみに、前田綱紀は「ぜいたく大名」とも呼ばれていました。そして、彼の子である吉徳(よしのり)に寵愛されていたのが、この騒動の中心となる、大槻朝元(おおつきとももと)です。
彼は体調の悪かった吉徳に代わり、様々な財政政策を行いました。
しかし、西日本を中心に、享保17年(1732年)に起きた虫害で加賀藩もダメージを受けました。そして、農民への対策が不十分だったことで、農民たちの一揆が発生しました。このような事情により、大槻朝元への非難が強まっていきました。
加賀騒動の実態このような状態の中、前田直躬(まえだなおみ)や青地礼幹(あおちのりもと)らは特に大槻に反発心を持っていました。
そして、延亭2年(1745年)吉徳が亡くなると、いっきに前田直躬は大槻朝元を糾弾。彼に転勤・蟄居、さらには流罪まで申しつけました。
さらに、後継者争いが勃発します。