皇室史上、最後の女帝・後桜町天皇にまつわる聡明で慈悲深きエピソード (2/3ページ)
まだ9歳のことです。後桃園上皇が光格天皇の後見をすることになりました。当時40歳。まるで本当の親子のような関係だったことでしょう。
このとき、上皇は仙洞御所(現在の京都御所西)に移っていたのですが、光格天皇への教育を行うために、内裏のほうにもよく向かっていたそうです。
後桜町上皇の光格天皇への影響力が最もうかがえるエピソードが、「尊号一件」という事件。光格天皇の実父は、閑院宮典仁親王でしたが、このころの「親王」は「禁中並武家諸法度」によって摂関家よりも序列が下にありました。
つまり、制度上、天皇の実父が、天皇や摂関家より、身分としては下の立場にいることになってしまいます。そこで、光格天皇は実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇(上皇)」の尊号を宣下したいと幕府に伝えたのです。
ただ、「太上天皇」とは天皇が譲位した後の称号のなので、基本的にこの尊号は天皇の位についた元天皇のみに贈られるものでした。
朝廷から報告を受けた当時の江戸幕府の老中・松平定信は、当然のごとく大反対。朝廷と幕府の間で、ちょっとした争いが生じるようになります。そんな中、後桜町上皇が「御代長久が第一の孝行」(身分だなんだというよりも、貴方自身の代が長く続くことが一番の親孝行ですよ)といって光格天皇を諭したといわれています。
その結果、若くて血気盛んだった光格天皇も主張を収め、幕府との関係もこれ以上こじれることがありませんでした。
天明の飢饉のときにりんごを配る1782年頃から発生した飢饉は、東北地方を中心に多くの被害がもたらされました。