20,000対763名!戦国武将・高橋紹雲が魅せた武士の心意気と壮絶な最期【上】
羽振りのよい時は鬱陶しいくらいすり寄ってくるくせに、ひとたび運が尽きたとなれば、たちまち手のひらを返して恥じない輩の、まぁ実に多いことでしょうか。
まぁ人間そんなものだからこそ、忠義とか誠意なんてものが声高に叫ばれ、最後の最後まで裏切らない者が高く評価されるのですが……。
今回はそんな一人、九州が誇る戦国武将・高橋紹雲(たかはし じょううん)のエピソードを紹介したいと思います。
衰運の大友家を必死に支える髙橋紹雲は天文17年(1548年)、豊後国(現:大分県)の戦国武将・吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)の次男として生まれました。
初名は孫七郎(まごしちろう)。元服して鎮理(しげまさ)と改名、13歳で初陣を飾って以来、大友義鎮(おおとも よししげ。大友宗麟)の部将として数々の武功を立てます(紹雲は出家後の名前です)。
しかし、大友家は薩摩国(現:鹿児島県)の島津義久(しまづ よしひさ)に敗れてより衰運はなはだしく、多くの家臣が島津に寝返ってしまいました。
キリシタン大名として知られる大友宗麟。Wikipediaより(撮影:大分帰省中氏)
「もう大友は落ち目だ。今の内に島津へ味方して、少しでも恩を売っておこう!」
「時代の流れに乗り遅れて、後から悔やんだって遅いからな!」
とまぁそんな具合に次々と去っていく連中を尻目に、紹雲はあくまでも大友家への忠義を貫く姿勢を崩しませんでした。
「行きたければ行くがよい。他家は知らず、たとえ最後の一人になろうが、わしは忠義をまっとうするまでのこと」
古今東西、目先の利益や一時の命を惜しんで主君を裏切った者が、長く栄えた例しはありません。ならば死を恐れず後世に残る名を惜しんでこそ武士というもの。
かくして島津の魔手が迫る天正14年(1586年)7月12日、紹雲は763名の兵を率いて最前線の岩屋城(現:福岡県太宰府市)に立て籠もり、島津の軍勢2万を迎え撃つのでした。
26倍以上の兵力差を半月も耐え抜く「御屋形様」
「何じゃ」
すっかり戦闘配備を終えた紹雲に、家臣の一人が進言します。
「ここは守りに難うございますれば、今からでも宝満山(ほうまんざん)へ移られては……」
実はこの岩屋城、高橋家の本拠地である宝満山城の出城であり、守るには不向きな立地となっていました。
「ならぬ。あちらへは、女子供と老人を移しておいた。それを守るためにこそ、我らはここで戦うのじゃ」
「……御屋形様が左様お覚悟なれば、我らもお供仕る」
古来「城攻めには籠城する兵の十倍を要する」と言うものの、紹雲率いる岩屋城の軍勢763名に対して、攻め寄せる島津の軍勢はおよそ2万。26倍以上の兵力差ともなれば、勝負は一瞬でついてしまうでしょう。
事実、島津の大将・島津忠長(ただなが。義久の従弟)は一日で攻略できると思っていたようですが、いざ合戦が始まるとこれが大苦戦。
およそ半月にもわたる戦闘で甚大な被害を出し、攻めあぐねた忠長は3度(※)にわたって降伏勧告を出しました。
(※)これに加えて、味方からも2回「城を捨てて撤退すべし」との旨で勧告を受けていますが、紹雲はそれも丁重に断っています。
「貴殿ほどの傑物が、何ゆえ耶蘇の邪教(キリスト教)に狂って人心を惑わす大逆非道の大友に与(くみ)されるのか。もはや貴殿の将器は十二分に証明された。我が島津家へ参れば、手厚く報いようぞ!」
忠長の呼びかけに対して、紹雲はこう答えました。
【続く】
※参考文献:
桐野作人『歴史群像デジタルアーカイブス <島津と筑前侵攻戦>壮絶!岩屋城 高橋紹雲の抵抗』学研、2015年3月
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論第一部 巨傑誕生篇』小学館、2014年1月
吉永正春『九州戦国の武将たち』海鳥社、2000年11月
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