もうおしまいだ…没落士族の悲哀を描いた明治時代の歌舞伎「水天宮利生深川」を紹介

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もうおしまいだ…没落士族の悲哀を描いた明治時代の歌舞伎「水天宮利生深川」を紹介

散切頭(ざんぎりあたま)を叩いてみれば、文明開化の音がする」

かつて歴史の授業で教わったこのフレーズ、明治4年(1871年)に散髪脱刀令が出され、それまでの丁髷(ちょんまげ)を切って髪を散らす「散切頭」の流行を表しています。

散切り頭の男たち。水野年方「開化好男子」より

どの男子が好み?明治時代の様々な男性の服装を描いた「開化好男子」がとても興味深い!

そんな世相を反映してか、歌舞伎の世界でも新時代に乗り遅れないよう、新たな演目が開拓され、いつしか「散切物(ざんぎりもの)」というジャンルを確立しました。

とは言うものの、丁髷頭から散切頭になって、出てくる小道具がちょっと洋風になったくらいで、実のところは従来の世話物(※)の域を出るものではありません。

(※)せわもの。庶民の生活風景を舞台にした一種のトレンディ・ドラマ。当時の習俗を知る上で貴重な民俗史料ともなっている。よりリアリティを求めた作品を生世話物(きぜわもの)とも。

しかし従来の型に固執せず、常に新しい風を入れようとする姿勢は、硬直した権力に反発する歌舞伎の精神そのもので、先人たちの心意気が伝わってくるようです。

今回はそんな散切物の一作「水天宮利生深川(すいてんぐう めぐみのふかがわ)」を紹介したいと思います。

妻を亡くし、娘は失明……

時は明治、「士族の商法」で財産を失った士族の船津幸兵衛(ふなづ こうべゑ)は、東京深川(現:江東区深川)の裏長屋に妻と娘2人で細々と暮しておりました。

「筆~、筆はいらんかね~!」

幸兵衛は生まれたばかりの次女を抱えて筆を売り歩きますが、お約束ながらちっとも売れません。妻は産後の肥立ちが悪く亡くなってしまい、長女のお雪は母を喪った悲しみで失明してしまうという不幸続き。

筆を売り歩くも、なかなか売れず……(イメージ)

「あ~あ、売れんなぁ……」

そんな哀れさを見るに見かねて、ご近所で剣術師範代をしている萩原正作(はぎわら しょうさく)の内儀が、金子(きんす)一封と赤ん坊の服を贈ってくれました。

「忝(かたじけな)い……!」

一方、盲目ながら杖をつきつき物乞いに出ていたお雪も、これまたご近所の要次郎(ようじろう)から1円(現代の価値でおよそ5,000円)を恵んでもらいます。

「父上……」

「あぁ、こんな時こそ人の情けが身にしみる……」

これで少しは運が開けると喜んだ幸兵衛父子でしたが、それも束の間。どこからともなくカネの匂いに敏感な高利貸しがやって来て、金子はもちろん、赤ん坊の服さえ剥ぎとって行ってしまいました。

ついに発狂した幸兵衛は……

「……もうおしまいだ……」

ささやかな喜びから一転、絶望の淵に沈む幸兵衛父子。隣の家から流れて来る楽し気な清元(きよもと。三味線浄瑠璃)の音が、より一層悲劇感を引き立てます。

「死のう……」

ついに一家心中を決意した幸兵衛でしたが、懐に抱いた我が子のまぁ可愛いこと。その笑顔を見たら、とても死ぬなんて出来ません。

どんな時でも、我が子は可愛い(イメージ)

死にたいけれど死ねず、生きたいけれど生きられず……もうどうすればよいかわからなくなってしまった幸兵衛は、ついに発狂して踊り出し、裏長屋を跳び出します。

「♪あひゃひゃひゃひゃ……♪」

「「「何だどうした、何事だ……!」」」

騒ぎを聞いて駆けつけたご近所さんたちは踊り狂う幸兵衛を必死に説得するも耳に届かず、とうとう赤ん坊を抱えたまま川に飛び込んでしまいました。

水天宮様のご加護で大団円

「おい、早く助けるんだ……!」

さて、ご近所さんたちに助け出された幸兵衛は水の冷たさで目を覚ましたのか、正気に戻っており、懐の赤ん坊を見ると、幸兵衛が持っていた水天宮(すいてんぐう)のお守りのお陰で水を飲まず、無事のようです。

水天宮とはかつて壇ノ浦の合戦(寿永4・1185年3月24日)で入水自殺した第81代・安徳天皇(あんとくてんのう)をお祀りしており、子供を守る神様(ほか子宝や安産など)として崇敬を集めていました。

自分の悲劇を繰り返させまいと、子供の守り神になった安徳天皇。Wikipediaより

「……方々、ご迷惑をかけて相済みませぬ」

「いいって事よ。困った時はお互い様じゃねぇか」

「せっかく命が助かったんだ。水天宮様に感謝するんだな」

その後、お雪の親孝行エピソード(母の死を悲しんで盲目となり、父を助けるために物乞いに出ていること)が新聞記事となって、各地の篤志家から多額の義援金が集まります。

「あぁ、これも水天宮様の深きお恵み……」

そのおカネでお雪の目を治す妙薬を買い、父娘仲良く力を合わせて生活を建て直したのでした。

めでたし、めでたし。

終わりに

……以上が「水天宮利生深川」の筋書きで、このアイディアは作者の河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)が、筆の行商にやって来た没落士族の哀れな姿と、自宅の裏に住んでいた母親が発狂して自分の赤ん坊を川に投げ込んだ事件をヒントにしたそうです。

初演は明治18年(1885年)、劇場近くに水天宮(中央区日本橋蛎殻町)があったため、それに当て込んだと言われています。

諷刺画「士族の商法」。明治政府は、彼らに一時金よりも「商売の基本・金融教育」を施すべきだったのかも知れない。

明治時代に入って武士たちが食い扶持を失い、生活に困窮していた様子をはじめ、大きく移り変わる世相を描き、現代に伝える散切物。

常に時代の風を吹き込む歌舞伎界では、近ごろスーパー歌舞伎(昭和末期~)も話題となっており、当時の人々もそのような感覚で楽しんでいたのかも知れませんね。

※参考文献:
今尾哲也『歌舞伎の歴史』岩波新書、2000年3月
河竹黙阿弥『明治文学全集9 河竹黙阿彌集』筑摩書房、2013年1月

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