破壊、打ち捨て、ムチ打ち…古代日本、豪族たちのケンカの火種はなんと「仏教」だった

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破壊、打ち捨て、ムチ打ち…古代日本、豪族たちのケンカの火種はなんと「仏教」だった

争いのもとは「仏教」の受け入れ

時は古墳時代。ヤマト政権の政治機構が整い、政権組織が「朝廷」と呼ばれるようになった頃、「仏教」が朝鮮半島から日本へ伝わってきました。

当時、朝鮮半島の南部では、百済(くだら)と新羅(しらぎ)の対立が激化していました。そこで百済の王が、日本と関係を深めようと考えて仏像などを贈ってきたのです。538年、あるいは552年頃の出来事と言われています。

厳密にいえば、仏教はすでに渡来人によって日本に入ってきていました。しかしそれは渡来人の個人的な信仰レベルで、朝廷は無関係でした。

それが、国家間の公式なやり取りとして伝来したのです。

この新しい宗教を受け入れるかどうかで対立したのが、蘇我氏と物部氏の一族です。

日本神話のカミの子孫である物部氏は、新しい宗教の導入に猛反対しました。

一方で、渡来人とも関係が深く国際感覚があったと思われる蘇我氏は、多くの国が信仰しているのに日本だけが無視することはできない、と考えて仏教を受け入れようとします。

当時の物部氏は、一大軍事氏族でした。刑罰、警察、軍事、裁判の執行などを司っており、朝廷を左右するほどの権力を持つ位についていたのです。

蘇我氏は氏族の管理や外交の権益を持っていました。

豪族の中でも最高位の地位にある一族が対立してしまったのです。朝廷は真っ二つに意見が割れ、このいさかいは親子の世代に渡って持ち越されることになります。

崇仏派と廃仏派の対立

さて、仏教賛成派を崇仏派、仏教反対派を廃仏派といいます。

困ったのは最高権力者である欽明天皇です。

欽明天皇(wikipediaより)

仏教反対の声があるからと言って、百済の王から贈られてきた仏像などを捨てるわけにはいきません。下手をすれば国際問題に発展します。

そこで天皇は、崇仏派である蘇我氏の長・蘇我稲目(いなめ)にこれらを渡して様子を見ることにしました。

蘇我稲目は、さっそく飛鳥の向原というところに仏像を安置しました(552年)。これが日本最初のお寺です。

ところがこの直後に、国内で疫病が流行します。

これに「それ見ろ」と言い出したのが、物部氏の長・物部尾輿(おこし)です。「外国の神様を奉ったりするから天罰が下ったんだ。仏像など捨てましょう!」と欽明天皇に訴えます。

欽明天皇もこれには反対できませんでした。

物部尾輿は、さっそく向原の寺を焼き払って、安置されていた仏像を捨ててしまいます。

ところがこの直後に天皇の住む大殿で火災が発生し、それを受けて欽明天皇は霊木から二体の仏像を彫らせたりしています。

最高権力者である天皇がこんなどっちつかずの態度なので、崇仏派と廃仏派の対立は決着には程遠い状況でした。

この対立は、物部尾輿、蘇我稲目、そして欽明天皇の三人が亡くなった後も次世代へと受け継がれることになりました。

571年に欽明天皇が崩御し、敏達天皇が即位したのち、物部尾輿の後継となったのは息子の物部守屋(もりや)でした。彼はもちろん廃仏派です。

物部守屋(Wikipediaより)

同じく、蘇我稲目の息子である蘇我馬子(うまこ)も、父の後を引き継いで大臣となります。

この世代交代が行われた後、またしても百済から仏像が贈られてきます。それは弥勒菩薩の石像でした。

崇仏派の蘇我馬子は、さっそく寺を作ります。

そこには三人の尼僧が入りました。これが日本で最初の僧侶です。

しかしこの直後に、馬子は病に倒れました。さらに疫病まで流行します。

これでまた勢いづいたのが物部守屋。

「そらみろ、仏教は排除すべきなんだ!」

彼は父親と同じように寺を破壊し、仏像を投げ捨て、さらに三人の尼僧をむち打ちに処しました。

ところが、今度は守屋本人と敏達天皇までもが病に倒れてしまいます。これには、人々も「仏罰ではないか」と噂します。

そして585年、敏達天皇は崩御しました。

これがきっかけで、仏教をめぐる対立はますます激化していきました。

今度は、誰に天皇の地位を継がせるか? という問題がややこしく絡み合っていったのです。

決定打となった「丁未の乱」

敏達天皇の崩御後、新しく皇位についたのは崇仏派の用明天皇でした。蘇我馬子の甥にあたります。

さっそく用明天皇は、仏教を公認したいと考えて臣下たちに議論をさせます。その結果、多くの人が蘇我氏の味方につきました。

危機感を抱いたのは物部守屋です。彼は彼で、別荘のあった河内国(現在の大阪府東部)で味方を集めることにしました。

その後の587年、用明天皇はたった二年の在位で崩御しました。

そこで守屋は、欽明天皇の皇子である穴穂部皇子(あなほべのみこ)を即位させようとします。もともと守屋は用明天皇の即位を快く思っておらず、穴穂部皇子と手を組んでいたのです。

一方で蘇我馬子は、のちの崇峻天皇である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推しました。

蘇我馬子(日本の歴史.comより)

もともと対立していた権力者一族が、それぞれ別の皇位継承者を推し立てたのです。ケンカにならないはずがありません。ここで対立は頂点に達し、ついに軍事衝突となりました。

先手を打ったのは蘇我馬子でした。彼は587年に穴穂部皇子を殺害すると、さらに物部守屋を討つために大軍を集めて挙兵します。

対する物部氏は軍事を司る氏族。ただでやられるはずがありません。城を築いて防御を固めた物部守屋たちの前に、馬子らは三度に渡って撤退を余儀なくされました。

ここで馬子は、仏様にすがります。「この戦いに勝ったら寺を建立します」と誓いを立てました。

また、蘇我氏と血縁関係にあった厩戸皇子(のちの聖徳太子)もこの戦いに参加していました。彼は四天王の像を彫って勝利を祈願しています。

仏法の加護もあってか、ついに馬子は物部守屋を討ちます、そして崇城天皇を即位させました。

この戦いを「丁未の乱(ていびのらん)」といいます。

この戦いに勝利したことで、蘇我氏の権力はますます強大なものになりました。そして日本に仏教が本格的に根付くおおきなきっかけともなったのです。

「宗教の受け入れを巡って戦乱が起きる」などという事態は、現代日本に生きている私たちにはまったく想像がつきませんね。しかし、今私たちが当たり前のように感じているお寺や仏像などは、全てここが起点となっているのです。

蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳

参考資料

山﨑圭一『一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書』2019年、SBクリエイティブ株式会社 Study-Z「5分でわかる「物部守屋」なぜ蘇我氏と対立した?どうして滅んだ?歴史オタクがわかりやすく解説」 刀剣ワールド「丁未の乱古戦場(大阪府大阪市:四天王寺)」

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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