江戸時代、どこよりも早くワクチン接種を敢行!天然痘の抑え込みに成功した佐賀藩主・鍋島直正に学ぶ
世界的な感染症の一つ「天然痘[てんねんとう]」(疱瘡[ほうそう]とも)は、人類の長い歴史の中で、幾たびも流行しました。日本では「続日本記」天平7年(735)閏11月の条に、
「是(この)歳頗る稔(みの)らず、夏より冬に至るまで、天下豌豆瘡(わんずがさ)を患いて、夭死(わかじに)するもの多し」
とあり、これが日本における天然痘の初見とされています。
日本書紀にも記録が。人類が根絶に成功した感染症「天然痘」と日本人の歴史天然痘が入ってきた要因としては、この年の1月に新羅からの使節団が来日、3,4月には遣唐使の帰国に見られるように、大陸との往来が盛んであったことが考えられます。以後、天然痘は日本で頻繁に流行するようになっていきます。
江戸時代、天然痘は死因の上位を占めるほどの病気で、そのうち約7割近くが乳児であったと言います。安永2年(1773)の大流行では江戸で約19万人が亡くなったというほど。致死率が高く、仮に命が助かったとしても痘痕や失明など、後遺症が残ってしまう非常に恐ろしい病気です。
痘痕は顔に残ってしまうことも多かったため、当時は「見目定め」とか「器量定め」などと呼ばれていました。
「痘(いも)神に、惚れられ、娘値が下がり」
という川柳が詠まれていたことから、特に若い女性は天然痘に対して、強い警戒感を抱いていたことがわかります。
長きに渡って全世界を苦しめてきた天然痘ですが、1798年にイギリス人医師・ジェンナーが初めてワクチンを発表しています。ジェンナーのワクチンは、牛にも発症する牛痘(感染症)の膿(牛痘苗)を体に入れることにより免疫を作るという方法で、安全性の高いものでした。
一方で、日本ではジェンナーの発表から約50年前の延享元年(1744)、清国から伝えられた「人痘接種法」を用いていました。これは、天然痘が一度罹れば二度と罹らない病気であるので、天然痘患者から人為的に病毒を接種させるという接種方法です。
ところが、この方法は副作用によって接種者が死亡したり、新たな流行を発症させるリスクを負うものでした。日本がジェンナーの作ったワクチンを手に入れるまでには、まだ先のことになります。
天然痘の抑え込みに成功した名君・鍋島直正…さて、天保元年(1830)、佐賀藩主に17歳の若い藩主が就任しました。その人物は「鍋島直正」…のちに、ジェンナーのワクチンを使い、天然痘の抑え込みに成功した名君です。
直正の功績は他に借金に苦しんでいた藩財政を改善させ、教育改革にも力を注ぎ藩校「弘道館」を拡充し人材育成を行うなど、様々な面から藩政改革を行いました。
直正は西洋の知識、技術にも強い関心を持ち、反射炉などの科学技術を導入、アームストロング砲の自主製造を行う他、三重津海軍所を設置し蒸気船(凌風丸)や蒸気機関も完成させています。それらの技術は島津斉彬にも伝授されたほどです。
そんな鍋島直正ですが、幼少の頃、天然痘に罹ったことがありました。天然痘は小さい子供の致死率が非常に高い病気ですから、直正は相当な苦痛を味わったことでしょう。そして、直正が藩主に就任して15年が経った頃、佐賀藩で天然痘が流行します。
そこで、直正は侍医の伊藤玄朴の進言を受け入れ、領民に種痘を行うことを決意します。元々、西洋の技術に明るかった直正は長崎にいる藩医・楢林宗建に命じ牛痘苗(ワクチン)を入手するよう命じます。
しかし、ここで一つの問題が…
これよりも以前、ジェンナーの開発をした牛痘接種法は、オランダ商館長・ズーフによって、享和3年(1803)に日本に紹介されていました。ところが、海外との輸送手段が船のみの時代、ヨーロッパで作られた牛痘の膿は日本までの長旅には耐えられず死滅してしまいました。
実際に、シーボルトも牛痘ワクチンを持って来日するものの失敗に終わっています。
膿ではなく保存のきくかさぶたを利用そこで、楢林宗建は、日本で行われていた人痘接種法が天然痘患者のかさぶたの粉末を使って接種していることからヒントを得て、膿ではなく保存のきくかさぶたで運んでくるよう、オランダ商館長・モーニッケにお願いしました。
斯くして、宗建の仮説通り、ワクチンは死滅することなく、ヨーロッパから無事に長崎まで運び込まれました。ワクチンの輸送はいつの時代も困難な作業であったことがわかります。
しかし、情報が限られていた江戸時代、ヨーロッパでは有効性が実証されているワクチンでも、日本人に接種するのにはまだその信頼を得ていませんでした。ワクチンには言われなき風評もあったようで…
「顔や声が牛のようになるぞ」
とか、
「牛の角が生えるぞ」
などといった噂が流れるほどで、なかなか庶民への接種がままならない状況だったそうです。
このような風評に対し、直正は自分の息子・淳一郎にワクチンを接種し、その有効性を実証してみせると、瞬く間に領民に浸透…その後、複数の蘭方医たちのネットワークで京都、大坂、江戸など、大都市を中心に全国へ広がっていきました。
佐賀藩の接種をきっかけに、大坂では緒方洪庵の「除痘館」、伊東玄朴が江戸神田に「お玉が池種痘所」を開設されています。
そして、天然痘は昭和55年(1980)、WHOは天然痘の根絶宣言を行いました。長い歴史の中で人類が戦い続けてきた天然痘との戦いは収束を見ることになりました。
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