なるほど…『徒然草』より、入念すぎた準備の結果、青春を棒に振った残念な若者
何ごとも、入念な準備なくして成功なし……確かにそうなのですが、準備にかける努力の方向性が間違っていると、これまた成功からは遠ざかってしまいます。
今回はそんな教訓が込められたエピソードを、鎌倉時代の随筆集『徒然草(つれづれぐさ)』からピックアップしてみましょう。
説経法師を志したのに……今は昔、ある者が我が子を法師にしようと思い立ちます。
「そなたは幼いころより、人を優しく教え諭す才能がありました。そこで法師の修行を積んで人々に説経(せっきょう。お経=仏の教えを説諭)し、世のお役に立つのがよいでしょう」
「はい!」
親からそう褒められると嬉しいもので、息子はすっかりその気になりました。
「……でも、待てよ?」
息子の脳裏には、説経法師となった自分が諸国を巡って活躍する姿が飛び交っているようです。
「最初は身分が高くないから輿(こし)や牛車(ぎっしゃ)の迎えなどなかろうし、あったとしても馬がいいところだろう。桃尻(ももじり。乗馬に適さない、あるいは不慣れな腰つき)で落馬でもしたらカッコ悪いし、まずは馬術から習うべきだな……」
そこで次の日から、息子は乗馬を習うことにしました。
「はいどぅ、はいどぅ……!」
もともと素質があったようで、息子はみるみる馬術が上達。自分の足腰くらいに乗りこなすレベルになったものの、こうなると面白くなり、もっと究めたくなるのが人の常。
「息子や、そろそろ修行を……」
「いいえ母上、まだ馬術を究めておりませぬ。はいよーっ!」
息子はますます馬術にのめり込み、ようやく満足したかと思ったら、今度はこんなことを思いつきます。
「そう言えば……説経や仏事の後に檀家より酒など勧められることもあるだろう。そうした宴席に招かれた時、宴会芸の一つも見せられないようでは興醒めだから、何か学ばねばならんな……」
そこで今度は早歌(はやうた、そうか)を習い始めました。早歌とはその名の通り早くテンポのよい節回しで歌を詠むもので、現代で言うJ-POPのはしりとも言える芸能。
これまた上達するとどんどん楽しくなってしまい、もっともっと究めようとする内に歳月は流れていきました。
「息子や……」
「はいはい、修行ですよね。修行……はぁ」
気づけばすっかり歳を食っており、また仏道に対する興味も雲散霧消。結局「乗馬と宴会芸の得意なおじさん」として生涯を終えたということです。
終わりに或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教のまゝに、説経師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説経習ふべき隙なくて、年寄りにけり。(後略)
※『徒然草』第188段より
……まぁ、以上ご覧の通りです。
「説経法師になりたかったのに、気がついたら乗馬と宴会芸を学んでいる内に時間を浪費してしまった」という滑稽話ですが、これに似たようなことを現代でもあちこちで見かけませんか?
例えば俳優を目指しているのに「ハリウッドに行ったら英語が話せなければ通用しないから」などと演劇そっちのけで英会話教室に通うなど……これはちょっと極端ですが、俳優を目指しているなら何はなくとも演技力を磨くのが先決ではないでしょうか。
転ばぬ先の杖もいいですが、本業が中途半端ではその杖も活かせませんし、まずは本業に邁進した上で、必要に応じて補強して行った方が、限られた人生を有効に活かせるというものです。
とかく準備ばかりに時間がかかってなかなか目標を達成できない方は、このエピソードを頭の片隅に入れておくといいかも知れません。
※参考文献:
島内裕子 校訂『徒然草』ちくま学芸文庫、2010年4月
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