将軍を人質…からの天皇誘拐!?「慶安の変」〜 あまりにも大胆すぎた江戸時代の幕府転覆計画

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将軍を人質…からの天皇誘拐!?「慶安の変」〜 あまりにも大胆すぎた江戸時代の幕府転覆計画

みなさんは、「幕府転覆計画」と聞いてどんなイメージを持ちますか?転覆、というからには用意周到なものをイメージするかと思いますが、江戸時代に起きた「慶安の変(けいあんのへん)」は、残念ながらそのずさんさで有名なのです。

今回の記事では、そんな慶安の変について詳しくご紹介したいと思います!

慶安の変に関与した丸橋忠弥(演:初代市川左團次)

当時の時代背景

「慶安の変」は、慶安4年(1651年)に起こりました。それ以前、江戸時代初期は武断政治と言い、幕府が大名たちに対して厳しい対応を取っていました。改易や減封などの処分もしばしばあり、改易された大名に仕えていた家臣らは浪人(ろうにん)となりました。

この武断政治に加え、それ以前に起きた「関ヶ原の戦い」などもあり、多くの浪人が存在することに。

このような状況を変えようと幕府転覆を考えたのが、慶安の変の中心人物であり軍学者であった由井正雪(ゆいしょうせつ)でした。彼は優秀だったため、幕府からも仕官の誘いがありましたが、彼は断っています。

このことが、幕府へ不満感を持つ浪人たちの支持を集めました。

慶安の変(けいあんのへん)とは?

由井正雪は、3代将軍徳川家光が亡くなり、幼い家綱が跡を継ぐタイミングを狙います。

計画は、槍の達人であった丸橋忠弥が浪人を率いて幕府の火薬庫を爆発させたあと、家綱を人質に取ると同時に、由井正雪が京都で天皇を連れ去る、というもの。

徳川家綱像

かなり大胆な計画ですが、実際は未遂に。彼の計画は内部の密告により幕府に知られており、丸橋忠弥は捕まって死罪に、由井正雪は駿府で捕まる前に自殺しています。

慶安の変(けいあんのへん)の事後

失敗に終わった慶安の変ですが、この事件のあと、家綱を支える大老の酒井忠勝をはじめとする重臣たちは大量の浪人が発生することを防ぐため、お家断絶の原因となっていた末期養子の禁止を緩和しています。

これにより、簡単に大名が取り潰されてしまうことを減らそうとしたのです。また、その後はこれまでの武断政治から、法律や学問で世の中を治める文治政治へ移行することになりました。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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