遷都、遷都、引越しばかり…古代日本の「都づくり」がなかなか落ち着かなかった問題

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遷都、遷都、引越しばかり…古代日本の「都づくり」がなかなか落ち着かなかった問題

「大化の改新」から始まる遷都

ご存じ「大化の改新」の後、孝徳天皇は飛鳥から難波宮へと都を移動させました。現在は難波宮跡公園となっているこの場所に造られた都は、旧来のものと比べ、抜きん出て巨大なものだったことが分かっています。

巨大な都へ引っ越した理由は、蘇我氏の没落をチャンスとして日本を生まれ変わらせようとしたからでした。孝徳天皇が理想としていたのは、当時の中国(隋)に似た中央集権国家です。まずはそれに先立って巨大な都を設立することで、天皇の権威を示そうとしたのです。

難波宮史跡公園

天皇を核にした国づくりは、聖徳太子の頃からの悲願でした。難波宮は、それを加速させるためのシンボルだったのです。

しかし実は、古代日本の「都」の歴史は、あっちこっちに行ったり来たりの引っ越し(遷都)の歴史でもあります。これには国際情勢の理由などさまざまな事情がありました。今回の記事では、これらの経緯を紐解いてみたいと思います。

乙巳の変 – 大化の改新

難波宮ができても、新しい国づくりは難航します。653年に、皇太子である中大兄皇子が孝徳天皇に対して「倭京」に移るように求めます(この「倭京」がどこなのかは諸説あります)。

孝徳天皇はこれを拒絶。すると皇太子は血縁者と天皇の臣下たちを連れて去ってしまいます。天皇はこれがショックで崩御しました。

孝徳天皇と中大兄皇子が仲違いした理由には諸説あり、権力闘争だったとも外交政策に関する対立だったとも言われています。この前後の経緯ははっきりせず、難波宮に孝徳天皇を置き去りにした中大兄皇子たちは、けっきょく飛鳥へ戻ったようです。

この後、655年に中大兄皇子の母親が即位して斉明天皇になりました。

その後の667年、今度は中大兄皇子が飛鳥から近江(滋賀県大津市)へ都を移します。

この遷都の理由は国際情勢にあったとされています。

白村江の戦い、壬申の乱…そしてまた遷都

7世紀初頭は、何よりも朝鮮半島が激動していました。高句麗、新羅、百済の三つの国に分かれて、このうちの新羅が力をつけて百済を攻めます。新羅は、唐の協力を得て朝鮮半島を統一しようとしていました。

ここで日本は、百済に軍を派遣します。ところが有名な「白村江(はくすきのえ)の戦い」で大敗を喫し百済は滅亡。日本軍は、百済の難民とともに帰国しました。

しかし、敗れて撤退してそのままというわけにはいきません。今度は日本本土で、新羅と唐の連合軍の侵攻にそなえる必要があります。

そのための方策の一つとして、「遷都」が行われたのでした。瀬戸内海からの敵軍の侵攻に備えるため、中大兄皇子は飛鳥から遠い大津に遷都し、近江大津宮を設立したのです。ここで彼は天皇として即位し、さまざまな改革を進めていきました。

天智天皇

天智天皇の改革として有名なものに、日本で最初の律令法典である「近江令」の制定や、初の戸籍である「庚午年籍」の編成、水時計(漏刻)を用いた時報制度などが挙げられます。これらは全て、律令国家の基礎となる政策でした。

しかし671年11月2日、天智天皇は病のため志半ばで崩御。第一皇子である大友皇子が後を継ぎましたが、その後、大海人皇子が吉野、伊勢、美濃の豪族を率いて近江へと攻め込んだ壬申の乱で敗れて自害。大津宮は戦火の中で消滅しました。わずか5年と短命の都でした。

壬申の乱で勝った大海人皇子は天武天皇として即位し、また飛鳥へ都を戻しますが、しかし天武天皇自身はしばらく美濃にとどまり、9月になって岡本宮(飛鳥岡本宮)に移り住みました。これはかつての舒明天皇・斉明天皇の宮殿でした。

彼はさらに先のことを考えていました。天皇の代変わりごとに都を移す旧慣を廃止し、永続的な都を建設しようとしたのです。

天武天皇

こうして676年に構想されたのが後に「藤原京」として完成した都です。天武天皇はこの都の完成を見ることなく亡くなりましたが、持統天皇の手で690年から建設が進められ、日本で最初の本格的な都城といわれている藤原京が完成したのは4年後のことでした。

ちなみに天武天皇は、藤原京だけではなく複数の都を置くべきだと考えており、孝徳天皇が造った難波宮をそのまま受け継いだ難波京を置いています。

理想の都だった藤原京?しかし長くは続かず…

藤原宮跡・菜の花

天武天皇が、永続的な都の必要性を考えたのにはさまざまな理由がありました。

もともと、ヤマト王権がこれほどまでに都を転々と移したのは、政治的な思惑はもちろんですが、天皇が死んだ時のケガレ祓いや、宮殿や貴族の邸宅の耐用年数の短さゆえのことでした。

また道路網が整備されていなかったため、領地からの収穫を集めることが難しく、それなら天皇のほうが移動して集めていく方が効率的だったという見方もあります。実際、当時の都は簡単に移動できるほど小さいものでした。

しかし大化の改新以降、朝廷は律令国家として中央集権政治をめざしたことから、社会全体が複雑化していきます。官僚の人数が増え、既宅などの規模も大きくなっていきました。こうして、政治効率の点から、流動的でない都の築造が求められるようになったのです。

こうして造られたのが藤原京です。後の平城京や平安京と比べると小規模でしたが、初めて中国の都をモデルにして「条坊制」を本格的に取り入れた都城都市でした。

ヤマト政権では、政治改革を行おうとしても豪族たちが反対してなかなか実現できませんでした。それがやっと実現できたのが藤原京だったのです。

しかしこの藤原京も、首都としては十数年しか続きませんでした。

それには地理的・衛生的な問題などもありましたが、何よりも、最新の中国の都城と藤原京とがあまりにも違っていたという理由があったようです。意気込んで造ったのはいいものの、写真もない時代、ほとんど想像で建造したのだから当然です。

こうして710年、元明天皇は都を藤原京から平城京へ移しました。宮内の建物は解体され、藤原京に住居を構えていた貴族や役人も引っ越し。瓦や柱など、再利用できる建築部材は全て平城京に運ばれていきました。

奈良・平城京の朱雀門

現在、かつての藤原京があった場所はのどかな田園です。

藤原京が姿を消した後には、奈良時代には税として集めた稲を管理する役所が設置されたり、寺が建てられたりしたようです。平安時代になるとそこには荘園が置かれ、水田地帯となったのでした。

古代日本の「都」といえば平城京や平安京が有名です。しかしこうして見ると、実はそれ以前にも、歴代天皇たちによる「都づくり」が手探りで行われていたことが分かります。

もちろん今では、数年ごとに首都を移動させるなんて考えられない話です。見方を変えれば、古代の先人たちの試行錯誤があったからこそ、現在の東京という「都」も、その複雑な政治機構を安定的に維持することができているのでしょう。

参考資料

歴史の謎研究会編集『誰もがその顚末を話したくなる 日本史のネタ全書 (できる大人の大全シリーズ)』2016年、青春出版社 Web歴史街道「天智天皇が遷都した近江大津宮」 歴史メディアRinto「「藤原京」とは?天武天皇の悲願中央集権政治を実現した都城都市をわかりやすく解説」 まなれきドットコム「誰でもわかる藤原京!遷都の理由・背景などをわかりやすく紹介!」 まなれきドットコム「難波宮への遷都。古代日本人はなぜ遷都を繰り返すのか」

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