悪場所から社交場へ。明治維新後、画期的な試みを取り入れた「守田座」から始まった日本の劇場スタイル

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悪場所から社交場へ。明治維新後、画期的な試みを取り入れた「守田座」から始まった日本の劇場スタイル

新時代の歌舞伎が到来した明治維新

江戸の人々にとって最大の娯楽といえばやっぱり歌舞伎。

歌舞伎を上演する芝居小屋は、明治維新の後も東京の町で引き続き営業を続け、人々を魅了していました。そんな中、新たな時代の到来を感じさせる西洋式の劇場も続々と生まれ始めます。

なかでも一人の座主によって大きく変わった劇場のスタイルには、現在につながる画期的なものがたくさんありました。

画像出典:アムステルダム国立美術館

江戸時代の芝居町は、風紀を乱すとされ幕府からの厳しい締め付けを受けるいわゆる「悪場所」とされる場所であり、芝居小屋もまた不衛生で暗く、芝居見物代以外の様々な追加料金がかかってしまうというのが常でした。

観客は芝居見物の際、お菓子やお弁当などの飲食代を支払うだけでなく、座るための敷物や座布団を別料金でレンタルしたり、不要なサービスへの料金を支払ったりしなければなりませんでした。というのも、芝居小屋でこうしたサービスを提供している人々は芝居小屋から直接給料をもらっているのではなく、チップを得て生活していたからです。

舞台と客席の関係も現在とは違いました。舞台を取り囲むように設置された客席に、区画ごと数人でひしめき合って座り、ヤジを飛ばす、レンタルの座布団を舞台に投げ入れるなど、現在の感覚では完全にマナー違反の荒っぽい観劇スタイルもお馴染みだったようです。

江戸時代末期、幕府が江戸市中で興行を公認した芝居小屋は浅草猿若町の中村座・市村座・守田座の3つしかありませんでしたが、明治維新により公認の劇場が増えることになりました。そこで、猿若町を出て新天地を切り開くことが歌舞伎界の大きな目標になります。

画期的な試みを取り入れた劇場守田座

そんななか、外国人居留地が設置された当時の最新スポットであった築地に程近い新富町に目を付けたのが、守田座の座元十二代目守田勘彌でした。

長年の守田座経営不振により莫大な借金を抱えていた守田勘彌は、それをもろともせず明治5年10月に当時日本最大の劇場守田座を開場。当時としては画期的な試みを数々取り入れました。

まず、余分な別料金サービスの強要を廃止。観客に入場料金以外の負担を強要せず、舞台から遠い座席ほど安くするという明朗な料金設定を取り入れました。

そして、従業員を劇場に雇い入れることで人員を整理し、合理的な経営を目指すとともに観客への負担軽減に努めます。

また、新聞劇評家の招待日を作って宣伝につなげるという、現代のエンタメ界と近い広告手法を取り入れたことも先進的でした。

さらにハード面での大きな変化が二つありました。

劇場は明治の文士たちが集う文明開化の社交場へ

一つは花道の形。江戸時代の芝居小屋では揚幕と呼ばれる出入口のあたりで曲がっていた花道をまっすぐなものに変更し、歌舞伎座などの現在の劇場で見られる花道と同じ直線のものを採用します。

もう一つは、今では当たり前の「椅子席」です。江戸時代の芝居小屋では、客席を区切って人々がぎゅうぎゅうに詰めかけていたところを、二階部分に外国人用の椅子とテーブルを設置。これが椅子席のはじまりと言われています。

これらの変革により、江戸時代の悪場所のイメージは、明治の文士たちが集う文明開化の社交場へと大きく生まれ変わったのです。

3年後の明治8年、守田勘彌は守田座を新富座と改称。西南戦争をほぼリアルタイムで劇化した「西南雲晴朝東風」など時代をリードするような作品を送り出し、新富座時代と呼ばれる一時代を築きました。

しかし、その後新富座は火事や震災などの憂き目に遭い、借金はますます増大、守田勘彌はつらい晩年を送ります。しかし、現在につながる劇場のスタイルを作り、芝居見物のイメージそのものを変えた功績は計り知れません。

参考文献:「明治演劇史」渡辺保、「興行師列伝」笹山敬輔、「芝居絵に見る江戸・明治の歌舞伎」早稲田大学演劇博物館編、「歌舞伎」河竹登志夫、「江戸時代の歌舞伎役者」田口章子

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