坂本龍馬は私が育てた!龍馬の姉・坂本乙女の女傑ぶりと弟への愛情エピソード

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坂本龍馬は私が育てた!龍馬の姉・坂本乙女の女傑ぶりと弟への愛情エピソード

幕末志士を語る上で、欠かすことのできないキャラとして人気を集めている坂本龍馬(さかもと りょうま)。

その龍馬を語る上で、幼少期から巣立ち(脱藩)を見守り、天下へ送り出して行った姉・坂本乙女(さかもと おとめ)の存在もまた欠くべからざるものです。

坂本龍馬。Wikipediaより

今回は龍馬を維新の英雄に育て上げた乙女のエピソードを紹介したいと思います。

文武両道の女傑、龍馬の母代わりに

坂本乙女は江戸時代末期の天保3年(1832年)、土佐藩郷士の坂本直足(なおたり。八平)と坂本幸(こう)の三女として誕生しました。

本名は留(とめ)、これは当時よくあった「もう女児は留め=止めにせよ=要らない」という意味ですが、愛称の「お留」を美しく乙女と当て字。また、乙女で「とめ」と読ませることもあったそうです。

5人兄弟姉妹の4番目(男、女、女、乙女、龍馬)で上3人の兄姉とは一回りほども歳が離れており、そのためか年齢の近い龍馬(天保6・1836年生まれ)とは仲良しでした。

やがて弘化3年(1846年)に母が亡くなると龍馬の母親代わりを自任。

「立て、それでも男か!」

「乙女姉ちゃ、もう堪忍じゃき……」

乙女は父親から教わった諸般の武芸(剣術、馬術、弓術、水練など)や書道、和歌などを叩きこみ、当時は甘え癖に由来すると考えられた寝小便(よばあたれ)も直しました。

「まだまだ!」

坂本乙女。時にはピストルもぶっ放していたとか。Wikipediaより

そんな乙女は身の丈五尺八寸(約175センチ)、目方は三十貫(約112キロ)という大柄で、下手な男性よりもよほどガタイがよかったそうです。

「あげなジャジャ馬に、嫁の貰い手があるじゃろうか……」

家族が心配するほどの女傑だった乙女に縁談が来たのは安政3年(1856年)、土佐藩典医・岡上樹庵(おかのうえ じゅあん。新甫)の後妻に迎えられたのでした。

……が。どうも相性が悪かったのか、あまりの女傑ぶりがお気に召さなかったのか、樹庵の浮気や家庭内暴力などが原因で慶応3年(1867年)に離婚して実家へ帰ります。

この年、龍馬が暗殺されてその妻であるお龍(りょう)が身を寄せて来たため、これを親身に迎えたと言いますが、程なくして去ったため、実は仲が悪かったのでは?など諸説あるようです。

乙女のライバルだった?お龍。Wikipediaより

龍馬の生前は最大の理解者として何かと相談に乗ったり、一方で他愛ないコミュニケーション(手紙のやりとり)を楽しんだりなど、終生仲良しだったようで、その事が「弟を奪った憎い女」=「お龍との不仲説」を生んだのかも知れません。

晩年は独(どく)と改名して甥の坂本直寛(なおひろ。後に自由民権家、高知県会議員)と同居。

これまでの女傑ぶりであれば、ここで甥と共に自由民権運動に参加していそうな気もしますが、そのような記録は見受けられないため、大人しくしていたのでしょう。

そして明治12年(1879年)に壊血病(極度のビタミンC欠乏症)で病死。どうやら当時は死の病だったコレラが野菜から感染すると聞いて、いっさい食べなかったことが原因と考えられています。享年48歳でした。

終わりに・自分らしく生きること

よく時代劇などで「私が男に生まれていれば(活躍できたはずなのに)……!」と嘆く女性が登場します。

しかし、男性に生まれても特段の活躍もできない者が少なからぬ一方で、女性に生まれても活躍している者もこれまた少なくありません。

女性に生まれようが男性に生まれようが、我らが乙女姉さんはそんなものどこ吹く風。

薙刀を得意としていた乙女(イメージ)

「立て、それでも男か!」

豪快に笑い飛ばして龍馬を英雄に育て上げた乙女の生涯は、何に生まれるか、よりもどう生きて何になるか、そして自分らしく生きることの価値を教えてくれるようです。

※参考文献:

阿井景子『龍馬と八人の女性』戎光祥出版、2005年4月 鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻お龍』新人物往来社、2007年11月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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