洗礼名は「ドン・シメオン」。キリシタン大名・黒田官兵衛の知られざる一面に迫る

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洗礼名は「ドン・シメオン」。キリシタン大名・黒田官兵衛の知られざる一面に迫る

以前大河ドラマの題材にもなったことから、黒田孝高(くろだよしたか、広くは黒田官兵衛としても知られる)の名前はみなさんご存じだと思います。

軍事的な才能に秀でており、戦国の三英傑に重用されたことは有名ですが、彼がキリシタン大名でもあったことは、意外とあまり知られていない、注目されていない事実ではないでしょうか。

そこで、今回の記事では、黒田孝高のキリシタン大名としての一面に注目してご紹介したいと思います。

キリスト教の伝来

そもそも、日本にキリスト教が伝来したのは天文18年(1549年)のことでした。カトリック教会の修道会・イエズス会のフランシスコ・ザビエルが布教しました。

織田信長は南蛮文化に関心があったためキリスト教を庇護し、キリスト教徒も増えていきました。

黒田孝高とキリスト教

キリスト教は、大友氏の庇護もあり、九州で広がりを見せていました。黒田孝高は、キリシタン大名であった摂津高槻城主高山右近のすすめにより教会に通い始めて、洗礼を受けました。その際に受けた洗礼名は「ドン・シメオン」というもの。

周囲の人々にもキリスト教の教えをすすめていたといい、1587年(天正15年)には嫡男の黒田長政や弟である黒田直之が洗礼を受けました。

黒田孝高とバテレン追放令

黒田孝高の息子と弟が洗礼を受けた1587年(天正15年)、豊臣秀吉が突然「バテレン追放令」を発布しました。これは、キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書でした。

黒田孝高はこれを受けてすぐに棄教しました。黒田孝高はその後仏門に入りました。

これだけ見ると、キリスト教への信仰は形式的なものだったと考えられがちですが、領地においては保護を続けたり、キリシタン大名であった小西行長の家臣が追放されると、召し抱えたと言われているため、キリスト教の教えを守ったと考えることの方が筋が通っているとも言えます。

黒田孝高の葬儀

黒田孝高は、彼の葬儀を見てもキリスト教を大切にしたことがわかります。例えば、葬儀はキリスト教式で行われていたり、遺言で教会などに資金を遺贈したりしています。

また、家臣の殉死を禁止するなど、命を大切にする教えも守っていることがわかります。

いかがでしたか?この記事が、黒田孝高の新たな一面を知るきっかけや、少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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