斬首の寸前まで婦女子を想い…。罪なくして殺された?幕臣・小栗上野介の生涯に迫る
みなさんは、小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)という人物を知っていますか?
幕末の歴史がお好きな方は知っているかもしれませんが、今回は、そんな彼について生涯や人柄、そして彼の死についてご紹介したいと思います。
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小栗上野介(忠順)は、文政10年(1827年)旗本であった小栗忠高の息子として江戸駿河台の屋敷に生まれました。17歳になると登城し、両御番となりました。
万延元年(1860年)には大老の井伊直弼に目をかけられ日米修好通商条約批准の遣米使節として渡米。世界一周をして帰国し、その後日本の近代化を推し進めました。しかし、大政奉還後、戊辰戦争が始まると、徹底抗戦派の小栗は、恭順論を採った徳川慶喜と一線を画し、新政府に追われる形で上州権田村へ引き揚げました。
その後は静かな暮らしをしていましたが、慶応4年(1868年)西軍(明治新政府軍)によって斬首されました。
小栗上野介の最期明治新政府軍の手によって罪なくして斬首させられた小栗上野介。斬首の前に何か言い残すことはないかと聞かれた彼は、
「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」
と答えたといいます。
小栗上野介の人物像・評価小栗上野介は、幼いころからいたずら好きの子どもと周囲からは思われていましたが、成長とともに文武どちらにも優れた才能を発揮しました。
14歳ごろにはすでに自分の意見をしっかりと周囲に主張するようになったといいます。日米外交においても大きな功績を残し、近代文明を直接目にした彼は、横須賀造船所を作ったり、アメリカから工業製品を持ち帰ったりもしています。
また、後世の評価としては、作家の司馬遼太郎が著書『明治という国家』のなかで小栗上野介を「明治の父」と述べ、日本の近代化に尽くした人物として評価しています。
いかがでしたか?今回は、小栗上野介についてご紹介しました。この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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