三韓王に、俺はなる!古代朝鮮で王朝独立を目指した紀大磐の野望と謎
朝鮮出兵と言えば戦国時代末期に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が兵を興した文禄の役や慶長の役が有名ですが、古代の日本もしばしば海を渡って朝鮮半島や中国大陸の各王朝と争いを繰り広げていました。
その中には、ただ大和朝廷の意を受けて戦うだけでなく、自ら王朝を興さんと野心を抱く者もいたようで、今回はそんな一人、紀大磐(きの おいわ)の野望を紹介したいと思います。
亡き父の名代として初陣を飾るが……紀大磐の生年は不明ですが、父・紀小弓(おゆみ)が雄略天皇9年(465年)3月に新羅(しらぎ。朝鮮半島の古代王朝)征伐の最中に陣没した際、交代のため渡海しています。
この時点で軍役(特に軍勢の指揮)に堪えうる年齢(20~25歳以上)であろうため、允恭天皇35年(446年)以前に生まれたものと推測可能です。
「父に代わり全軍の指揮を執ることとなった紀大磐である!」
新羅征伐の武勲を立てた亡き父・紀小弓。菊池容斎『前賢故実』より
さぁ、父以上の将器を見せてくれる……とばかり意欲満々の紀大磐でしたが、既に着陣していた小鹿火宿禰(おかひの すくね)や蘇我韓子(そがの からこ)らの反感を買ってしまいます。
「いくら大将軍(故紀小弓)閣下のご子息とは言え、何の経験もない者が最高指揮権を掌握するなど納得が行かぬ!」
「黙れ!亡き父の名代として参っておる以上、父と同等の権限が認められて然るべきではないか!」
現場の声を顧みず、協調姿勢のない大磐の態度に腹を立てた宿禰は、韓子と共謀して大磐の暗殺を図りました。
「バカめ、そなたらの考えつきそうな浅知恵なぞ、とっくにお見通しだ!」
「ぎゃあ……っ!」
大磐は韓子を返り討ちにしたものの、宿禰は取り逃がしてしまいます。
この抗争によって大和朝廷軍の内部分裂が決定的となり、戦争どころではありません。やむなく朝廷は軍勢を引き揚げさせたのでした。
三韓王に、俺はなる!と、神聖王を称したが……「せっかく武勲で初陣を飾ろうと思ったのに、つまらぬ横槍でふいになってしまったわい……」
日本に帰国して以来、むしゃくしゃしながら過ごしていた大磐でしたが、歳月は流れて顕宗天皇3年(487年)、再びチャンスが巡って来ました。
「よし、今度こそ!」
喜び勇んだ大磐は軍勢を率いて海を渡り、たちまち任那(みまな。朝鮮半島の古代王朝)を掌握して活動拠点を確保します。
当時の国際情勢図。Wikipediaより(画像:Historiographer氏)
「よし、北の高句麗(こうくり。同)と手を組んで西の百済(くだら。同)を征服しよう!」
この動きを警戒した百済王は軍勢を差し向けて来ましたが、大磐は奮戦してこれを撃退。初陣で活躍できなかった20年越しのフラストレーションを晴らしたのかも知れません。
「百済の兵など恐れるに足らぬ!者ども、大いに暴れ回れ!」
「「「おおう……っ!」」」
向かうところ敵なし、その勢力を拡大した大磐は任那人の左魯(さ ろ)と那奇他甲背(なかたこうはい)の補佐を得て(唆されて?)三韓の王たらんと野望を燃やします。
「我はこれより『神聖』と号する!」
「「「神聖王殿下、万歳!万歳!万歳……っ!」」」
政府機構の整備も推し進めて、朝鮮半島に新たな王朝の出現かと思われますが、どういう訳か大磐はすべて投げ出して、日本へ帰国してしまいました。
「「「えええ……っ、殿下!?」」」
なぜ大磐が三韓王の地位を捨ててしまったのかは不明ですが、ともあれ残された左魯、那奇他甲背ら近臣300名は百済軍の逆襲に遭い、皆殺しにされたそうです。
ここまですべて顕宗天皇3年(487年)年内の出来事であり、まるで嵐のような激動の一年であったことは想像に難くありません。
エピローグ帰国以降、紀大磐がどうなったのか『日本書紀』にも記録がなく、すべては謎のままですが、もしかしたら実は暗殺されていて、それを隠すため急きょ帰国したことにしたとか、色々と想像がはかどります。
それにしても、せっかく大磐を擁立したのに梯子を外された形で最期を遂げた左魯、那奇他甲背らが不憫でなりませんね。
なお、紀大磐には紀男麻呂(おまろ)、紀小足(おたり。男麻呂の子説もあり)という子供がおり、その血脈を後世に伝えていますが、彼らの物語についてはまたの機会に紹介できればと思います。
※参考文献:
宇治谷孟 訳『全現代語訳 日本書紀 上』講談社学術文庫、1988年6月 宇治谷孟 訳『全現代語訳 日本書紀 下』講談社学術文庫、1988年8月 坂本太郎ら監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、2010年11月 藤原彰 監修『コンサイス日本人名辞典』三省堂、2001年9月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan