言葉は自分だけでなく他人をも変え、それが社会を動かし未来も変える (2/3ページ)
「ハズレ」の親を持ってしまったことを「ガチャガチャ」で外れを引いてしまったことにちなんだものらしい。親を選ぶことはできず、生まれついての環境がすべてが決まるとする消極的な発想で賛否両論を呼んでいる。ある若いタレントは、そこまで深い意味はなく軽い気持ちで話してるだけで、世の大人が重く捉えているとの見解を述べていた。案外そんなものかもしれない。自分が中高生の頃を振り返ると意識の浅さが思い出される。特に子供や若者は言葉に対する意識は希薄である。反抗期に母親に「クソババア」と罵り、喧嘩するときに「ぶっ殺す」と凄むのに深い考えがあるわけではない。感情のその場の「ノリ」が支配していたものだ。一部を除いて大抵は成長しながらそうした言葉は薄らいでいく。しかし「親ガチャ」という言葉は親や家族を否定し、自分の可能性も否定するもので、未来への希望を閉ざす危険な言葉に思える。
■本質変わらず変化した荒んだ言葉 売春
最近は「売春」という言葉を聞かなくなった。今の若い世代はこの言葉を知らなくてもおかしくはないし、かつての「援助交際」を指す言葉として知ってはいても、その薄暗さまでは追体験できないだろう。「売春」は「援助交際」、「エンコー」に取って変わられた。「売る」のではなく「援助」をしてもらう。より受け身になり罪の意識は薄くなる。さらに世の大人たちは「買春」という言葉を作った。これ自体はよい。売春だけでは女性が主導する犯罪である。しかし「売春」が消え、援助交際の提供者を被害者として「買春」のみを普及させた。このことも少女たちから罪の意識を薄くさせることになったと思われる。そして近年「援助交際」は「パパ活」となる。ここには「売る」「援助」といった金銭授受の要素すらない。やっていることはほぼ変わらないにもかかわらずイメージの軽薄化はとどまるところを知らない。たかが言葉ではない。軽い言葉は簡単に行為に対する抵抗を奪う。唯識の理論が正しければ、軽い言葉や悪質な言葉は最深層意識である阿頼耶識に熏習され、心が荒んでいくことになる。
■ 心を浄めるきれいな言葉
言葉で水の結晶が変化すると主張する本が話題になったことがある。