名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】

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名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】

貴族・公家と戦国武将って、結びつきませんよね。でも、美濃国に、名門貴族である近衛家出身の戦国武将がいたのです。

その名も、斎藤正義(さいとうまさよし)。元貴族らしく大納言の官位を得て、斎藤大納言と呼ばれていました。

今回は、そんな斎藤大納言正義の波乱に満ちた人生を紹介しましょう。

近世一の英雄と讃えられる武将

 浄音寺に現存する斎藤大納言正義の等身大の肖像画。(写真:Wikipedia)

わが東濃の斎藤氏亜相公は、近世一の英雄にして、歳なお少壮なり。智名勇功をかくす。古人に過ぎたる者すくなし。堅く一城を築き、高く雲雨を凌ぐ。そのかさねを石にし、その門を鉄とする。そもそもまた精兵・吏卒は弓矢をつらね、旗しょうをたて、外衛すること光とうのごとし。

これは、斎藤大納言正義の菩提寺で開基とされる浄音寺(岐阜県可児市)に伝わる正義の肖像画の讃に書かれた文章(原文は漢文・抜粋)です。現代語に訳すと、以下のようになります。

斎藤大納言正義公は、近世一の英雄である。若いけれど、その智名や勇名は、昔から並ぶものがないほどだ。公は、堅固な一城を築いた。その城は、高い山に築かれ、石垣や鉄の門で守られている。城兵や家臣たちは、いずれも強兵揃いで、弓矢を連ね、旗を立て、敵の侵入を許さない。

讃とは、その人の徳を称えるために書かれた文章です。しかしながら、斎藤正義という人が武将として、いかに強く、いかに優れていたかを伺い知ることができるのではないでしょうか。

 斎藤正義が開き、その菩提寺となった浄音寺。(写真:T.TAKANO)

なぜ斎藤正義は武将になったのか

斎藤正義は、1516(永正13)年、関白近衛植家の子として生まれ、幼名を多幸丸と名付けられました。弟には、嫡子として近衛家を継いだ高名な近衛前久がいます。

正義の母は身分が低かったため、近衛家を継ぐことができず、庶子として扱われたわけです。そして、13歳の時、比叡山横川恵心院で出家させられてしまいました。

普通ならそのまま僧として一生を終えたわけですが、多幸丸は僧としての修業を積みながらも、武芸の習得にも励んでいたとのこと。当時、比叡山にはたくさんの僧兵がいて、戦国大名並みの武力をもっていたので、武芸の稽古には事欠かなかったのでしょう。そして、16歳の時、還俗して元服し、義正を名乗りました。

これが義正の戦国武将としてのスタートラインとなるのですが、そのきっかけには2つの説があるのです。

斎藤道三の養子説

 稲葉山城を本拠に美濃国主となった斎藤道三。親子2代でその地位を築いたが、出生は詳らかではない。(写真:Wikipedia)

正義が比叡山に送られた時、美濃国可児郡瀬田村の出身といわれる近衛家家臣瀬田左京が付けられています。

左京の姉は容姿に優れていたため、斎藤道三に見出され愛妾となっていました。その縁もあり、左京の仲介で道三の養子になったという説です。

当時の道三の立場は、まだまだ美濃国統一にほど遠く、守護土岐頼芸の一配下として、多くの敵と戦っていました。

そんな道三にとって、美濃の国人たちを服従させるためには、庶子とはいえども、正義の持つ近衛家という高貴な血筋は大きな魅力であったのです。

美濃斎藤持是院家(みのさいとうじぜいんけ)縁故説

 実力も官位も主筋である美濃土岐家を凌いだ斎藤妙椿。(写真:Wikipedia)

美濃守護代斎藤氏の重臣で室町幕府奉行衆を務めた斎藤妙椿(みょうちん)を祖とする美濃斎藤持是院家を継いだのではという説です。

斎藤妙椿は、美濃守護代斎藤宗円の子で、幼少時から僧としての修業を積んだ上で、戦国武将としても活躍。美濃守護土岐氏を凌駕する実力を美濃国内に轟かせた人物でした。

妙椿は、武力だけでなく、文化人としても知られ、官位も主君土岐氏の従五位下を遙かに超える従三位権大僧都に登り、孫の利親(妙親・持是院家3代)は大納言を称しました。

しかし、明応5(1496)年に、土一揆の蜂起で利親(妙親)が父妙純(持是院家2代)とともに討死、持是院家は衰退します。そのため、正義がその家柄の高さから斎藤持是院家を継ぎ、大納言の官位を得たのではと推測されています。

正義も僧として妙春(みょうしゅん)を名乗っており、持是院家が帰依した浄土宗の浄音寺を建立しています。このことから、法華宗に帰依していた道三との関連性が疑われるのです。

さらに、斎藤利親(妙親)と何らかの血縁的な関係があったのではないかという説も唱えられています。

このように、正義が戦国武将となった経緯ははっきりせず、正義と道三の関係も確かなことはわかりません。

しかしながら、正義は道三方、あるいは道三の援助により、戦国武将として美濃国内で活躍していたことは事実です。

 斎藤持是院家の居城加納城。一度廃城となったが江戸時代になり徳川家康により新築された。(写真:Wikipedia)

【前編】はここまで。【後編】は、いよいよ斎藤大納言正義の戦国武将としての生涯を紹介しましょう。

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