人柱など必要ない!少女の命を救った戦国武将・毛利元就の教え「百万一心」とは
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今は昔の江戸時代後期、文化13年(1816年)に長州藩士の武田泰信(たけだ やすのぶ)が安芸国・吉田郡山城(よしだこおりやまじょう。現:広島県安芸高田市)を訪れ、城内「姫の丸」で不思議な石碑を発見したそうです。
「何だこれは……?」
碑面には「一日・一力・一心」と刻まれており、何のことか分からなかったものの、何だか珍しいものだったため、拓本の要領で写しとったものを、半世紀以上の歳月を経た明治15年(1882年)になって、豊栄神社(とよさかじんじゃ。山口県山口市)に奉納しました。
「これはかつて、毛利元就(もうり もとなり)公が筆をとり、『百万一心』と石に刻ませたものじゃ」
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そんな伝承があるとかないとか、もしそうであれば長州藩主・毛利家にゆかりの深い(元就を祀っている)豊栄神社に……となったようで、ちょっと話題になったものの、いざ探してみると石碑の現物はありません。
「山じゅう探しても見つからなかった……(拓本からすれば)あんなデカいものが、どこへ消えてしまったのだろう……」
武田泰信がウソをついた(拓本をデッチ上げた)可能性もなくはないものの……やがて吉田郡山城における「最大の謎」となった「百万一心」石碑ですが、そこにはこんな伝承があったそうです。
人柱など許さない!毛利元就の教え時は戦国、永正5年(1508年)ある日のこと、当時12歳だった毛利元就(当時は松寿丸)が厳島神社を参拝したところ、5~6歳ほどの小さな女の子が泣いているのを見つけました。
「いかがしたか」
聞けば少女は母親と二人で巡礼の旅をしていたが、ある旅先で母親が築城の人柱に選ばれ、そのまま生き埋めにされてしまったそうです。
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「何とむごい……こんな幼な子を遺して、お母上もさぞや辛かったろうに……」
自分自身も幼くして両親と死に別れているため、他人事には思えなかった元就少年は、少女の身柄を引き取ることにします。
それから15年の歳月を経た大永3年(1523年)、すっかり成長した元就は吉田郡山城へ入りますが、本丸の石垣が何度も崩れて困っていました。
「これはやはり、人柱を立てねば神様が鎮まらぬのでは……」
誰かが口を開くと、普請奉行は「そう言えば、昔お屋形様が引き取った娘がおりましたな。あれを人柱にしてはいかがでしょうか」と進言。それを聞いた娘も
「かつてお屋形様に助けていただいたご恩を少しでも返すのは今この時をおいてございませぬ。どうか私を人柱に……」
などと殊勝なことを申し出たところ、元就は奉行と娘を叱り飛ばします。
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「黙れ!人柱など必要ない!もし我が許可なしに人柱など立ててみろ、その方の首が飛ぶと思え!」
と、大層な剣幕で部屋を出ていった元就は、やがて何やら書かれた紙を手に戻って来ました。
「……見よ」
「「……百万一心、にございますか」」
「いかにも。百万の皆が心を一つにすれば、人柱など立てずとも地の神は鎮まろうぞ」
大書された文字をよく見ると、百は「一」と「日」、万は「一」と「力」に分かれ、そして一心となっています。
これは「日を一つ(同じ)に、力を一つに、心を一つに」する意味を持ち、みんなが一斉同時に力と心を合わせれば、成し得ぬことなどありはせぬという元就の決意が表れていました。
「どうしても何か埋めたいのであれば、その文字を石に刻んで埋めればよい」
「ははあ……」
果たして百万一心の石碑を埋めたところ、石垣普請は成功し、以来崩れることはなくなったそうです。
終わりに「……それで郡山城のあの一角が『姫の丸』と呼ばれるようになったのじゃ」
「そうだったんですね」
人を守るための城を築くのに、人の命を捨てては本末転倒。みんなが心と力を合わせることこそ、どんな城よりも堅い守りとなることを、元就は主張したのでした。
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吉田郡山城内に建てられた百万一心の石碑。Wikipediaより(撮影:TT mk2氏)
けっきょく石碑の現物は見つからずじまいでしたが、昭和6年(1931年)には拓本を元に石碑を複製し、吉田郡山城にある元就の墓地境内に建立。
元就の精神は、今も人々の心に受け継がれています。
※参考:
百万一心碑(吉田町)|安芸高田市 毛利氏関係史跡|安芸高田市歴史民俗博物館日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan