庶民から強く支持された歌人・石川啄木は作り話の天才で放蕩三昧だった!?

Japaaan

庶民から強く支持された歌人・石川啄木は作り話の天才で放蕩三昧だった!?

石川啄木(いしかわたくぼく)は、明治時代に活躍した岩手県出身の歌人です。

啄木の詠んだ短歌には日々の生活苦や後悔をテーマにしたものが多く、庶民から強い共感と高い支持を得ました。

そのため、現在の中学や高校の教科書にも短歌集「一握の砂」が掲載され、「働けど働けど」や「軽きに泣きて」など、代表作に触れる機会も少なくありません。

しかし、そのような作品を生み出した啄木自身は、放蕩三昧だったといわれています。

こちらも合わせてどうぞ

ゲス過ぎるぞ石川啄木!明治時代に活躍した文豪たちの興味深いエピソードを紹介

文学家としてデビューするまで

石川啄木

住職の息子であった啄木は、子供の頃から読み書きができ、町の人からは神童とよばれて育ちました。

そんな啄木は文学家を目指して16歳で上京していますが、就職先が見つからず岩手に帰郷。人生のどん底にいた啄木の心を癒してくれたのが、「節子」と言う初恋の女性でした。

その後、19歳でデビュー。デビュー作である「あこがれ」が大ヒットし、文学界では天才とよばれるようになったのです。

啄木の放蕩ぶり

啄木は念願だった節子との恋を実らせ結婚するのですが、結婚式当日にドタキャン。節子と親族だけの披露宴が開かれました。

実はこのドタキャン騒動には、啄木の放蕩ぶりが反映されています。というのも、結婚式と同じタイミングで父・一禎が宗費滞納によって住職の資格をはく奪され、大黒柱を失った一家が路頭に迷っていたのです。

「あこがれ」を出版するための打ち合わせに東京へ来ていた啄木は、「いまの状況で実家に帰ったら、俺が家族の面倒を見ないといけなくなる」という理由で実家には帰らず、そのまま結婚式もドタキャンしたのだとか。

「働けど働けど」

デビュー作「あこがれ」が大ヒットし、結婚式ではドタキャン騒ぎを起こしたものの晴れて結婚した啄木は、世間から見れば順風満帆に映ったかもしれません。

しかし、「あこがれ」を発表したあとも啄木は生活できるほど稼ぐことはできず、仲の良かった金田一京助を頼って小説を書いています。同時に、教師や朝日新聞社の校正などアルバイトをして生計を立てていました。

そういった状況のなかで読んだ歌が「働けど働けど」であり、「働いても働いても、私たちの生活はちっとも良くならない。それでも、いまのままでは良くない。何とか現在の貧乏生活から抜け出したい」という啄木の思いが反映されている作品です。

この「働けど働けど」が掲載された短歌集「一握の砂」は、「あこがれ」発表から約6年後の1910年に出版され、啄木はようやく文学家としてまともな収入を得られるようになります。

作品と現実の乖離

心を打つすばらしい作品を数多く世に送り出した啄木ですが、「作り話の天才であり、放蕩三昧」の人物でもあったようです。

たとえば、啄木の短歌には「ふざけて母を背負ってみるが、あまりの軽さに涙がこぼれ3歩も歩けない」といった、年老いた母を想う一節があります。しかし啄木は、母親に仕送りをしたことは一度もありません。

それどころか、遠くで母と妻が生活しているのをいいことに、女遊びに浸っていたのだとか。

さらに、妻には読まれないよう女遊びに関する日記をローマ字で記していました。

また、23歳の頃から働きはじめた東京の新聞社では、朝起きられず、仮病で休むことも少なくなかったと言われています。

作品の世界観とはまったく違い、人間臭く放蕩ぶりが目立つ人生を送ったとされる啄木。しかし、聖人君主とは違った人間味あふれる生活を送った啄木だからこそ、現代の我々もが共感できる万人の気持ちを表現できたのかもしれません。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「庶民から強く支持された歌人・石川啄木は作り話の天才で放蕩三昧だった!?」のページです。デイリーニュースオンラインは、歌人明治時代石川啄木カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る