地味だけれども優れた二代目。北条義時・足利義詮・徳川秀忠の資質とは? 【後編】

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地味だけれども優れた二代目。北条義時・足利義詮・徳川秀忠の資質とは? 【後編】

地味な存在で、あまり歴史的評価が高くない武家政権の二代目たち。しかし、鎌倉幕府・足利幕府・江戸幕府と二代目がしっかりと受け継いだ政権はどれも長く、安定した政体を維持しました。

【後編】では、鎌倉・足利・江戸幕府の二代目である北条義時(鎌倉幕府二代執権)、足利義詮(足利幕府二代将軍)、徳川秀忠(江戸幕府二代将軍)の優れた資質について、ご紹介しましょう。

前編の記事はこちら

地味だけれども優れた二代目。北条義時・足利義詮・徳川秀忠の資質とは? 【前編】

鎌倉幕府の政権を盤石にした二代目・北条義時

 鎌倉幕府二代執権・北条義時。関東の地方政権だった鎌倉幕府を全国的政権に躍進させた。(写真:Wikipedia)

源頼朝を補佐し、鎌倉幕府の成立を導いた初代執権・北条時政の跡を継いで、二代執権となったのが時政の子・北条義時でした。

北条三代のうち、歴史的評価が一番高いのが、義時の子である三代執権の泰時で、最初の武家法である御成敗式目を制定。この功績は、教科書では最重要項目となっています。

一方、泰時と比べるとほんのわずかな記述しかない義時はどうでしょう。実は、関東の地方政権であった鎌倉幕府を全国区に押し上げる大きな功績を残しています。1221(承久3)年に起きた承久の乱で、朝廷を破り、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇を配流、朝廷方の勢力を一蹴したのです。

その実像は、武士というよりも策謀に長けた政治家のイメージを強く感じさせます。鎌倉幕府初期おけるライバルである比企氏・畠山氏・和田氏などの有力御家人の排除の他、三代将軍源実朝暗殺にもその影を落としているのです。

こうなると義時は、地味な二代目などではありません。その志は、三代執権泰時に引き継がれ、鎌倉幕府と北条得宗家の政権確立を成し遂げ、幕府権力は盤石となったと考えられるのです。

 鎌倉幕府三代執権・北条泰時。最初の武家法である御成敗式目を制定した。(写真:Wikipedia)

室町幕府全盛期の礎を築いた二代目・足利義詮

 室町幕府二代将軍・足利義詮。その生涯を戦乱の中におくったが、内政面でも優れた資質を発揮した。(写真:Wikipedia)

建武の新政を行う後醍醐天皇を吉野に追い、室町幕府を開いた足利尊氏の嫡男として、二代将軍に就いたのが足利義詮でした。

しかし、義詮はあまりにも地味過ぎて、ほとんどの教科書にその名前すら記されていません。息子の三代将軍義満が、北山文化・勘合貿易・南北朝合一と華やかすぎるほどの功績を記されているのとは正反対の人物です。

では、義詮は何もしなかったのでしょうか。いやいや、それどころか義詮がいたからこそ、室町幕府の礎ができあがったのです。

室町幕府ほどその成立期において不安定な政権はありませんでした。吉野に逃れた後醍醐天皇は南朝を開き、南北朝の戦いが起こります。それに、尊氏の弟直義と尊氏の抗争が絡み、観応の擾乱として全国規模の大内乱に発展していきました。

そんな中、尊氏が戦いで受けた矢傷がもとで死去し、幕府の有力武将である二木氏・細川氏・畠山氏が離反します。義詮自身も南朝に京都を奪われてしまいました。普通なら、ここで室町幕府は終わっていたはずですが、ここから義詮の優れた資質がものを言い出すのです。

義詮が行ったこと、それは将軍独裁の裁判制度、補佐機関の管領の設置など、室町幕府の内政強化と将軍権力の強化でした。その上で、南朝勢力の切り崩しを行い、その結果南朝は徐々に衰退していきます。

戦いに明け暮れた将軍義詮は、38歳でこの世を去ります。おそらくは、志し半ばでの死であったはずです。しかし、その功績は間違いなく、次代に創出される室町幕府の最盛期の礎を築いたものだったのです。

 室町幕府三代将軍・足利義満。金閣寺の造営、能楽の保護など文化面の他、勘合貿易で幕府財政を潤わせた。(写真:Wikipedia)

徳川300年の土台を築いた二代目・徳川秀忠

 江戸幕府二代将軍・徳川秀忠。大名統制の武家諸法度、朝廷統制の禁中並公家諸法度を制定。政治的辣腕を振るった。(写真:Wikipedia)

幕府を開いた歴代将軍で最も評価が高い徳川家康。徳川秀忠は、その三男として生まれ、江戸幕府二代将軍となりました。

この人も、父家康、息子で三代将軍の家光(鎖国や参勤交代などの功績で有名)と比べると、やはり地味な存在と言わざるを得ません。しかも、関ケ原、大阪の陣という大切な合戦で、家康に叱責されるという残念なエピソードばかり知れ渡り、戦下手な武将というレッテルさえ貼られている始末です。

ただ、秀忠の真骨頂は、政治家として優れた資質を持っていたことです。江戸幕府の政権安定の屋台骨ともいえる武家諸法度と禁中並公家諸法度を制定したのです。

秀忠が将軍職に就いたころ、江戸幕府の政治は、駿府にいる家康が行う大御所政治江戸にいる秀忠が行う幕府政治の二面性で成り立っていました。普通なら、将軍として独裁を振るいたいところですが、秀忠はその真面目さから、カリスマである父を立てたのです。

まだまだ徳川氏に代わって天下取りの野望に燃える大名を統制し、幕府権力を盤石にするためには、家康・秀忠父子が協力して政権を運営するシステムが必要でした。

秀忠は、家康の期待に応え、内政強化に努め、江戸幕府の基盤を強固なものにしていきました。秀忠がいたからこそ、江戸幕府は260年にわたる政権を維持できたといっても過言ではないでしょう。

 江戸幕府三代将軍・徳川家光。秀忠が定めた武家諸法度に参勤交代を追加。さらなる大名統制を行った。(写真:Wikipedia)

いかがでしたでしょうか。社会の教科書にもあまり登場しない地味な存在の三人ですが、彼らがいたからこそ、その政権は長く、安定したものになったのです。

2回にわたり、お読みいただきありがとうございました。

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