言葉の壁を乗り越えるには?遣唐使として海を渡った貴族・橘逸勢のエピソード
皆さんは、留学したいと思ったことはありますか?
「本場でしっかりと学んで、その道を究めたい。でも……」
多くの方にとって立ちはだかるのが「言葉の壁」。母国の日本語でさえ使いこなせている自信がないのに、英語なんてとてもとても……そんな方は決して少なくないでしょう。
しかし、たとえ言葉なんて通じなくても所詮は同じ人間ですから、いざ現地へ飛び込んでしまえば、けっこう意思の疎通はできてしまうものです。
「ワタシ、ハラヘッタ」「コレホシイ」「アリガトウ」……などなど、最低限のカタコトであっても身振り手振りで押し通していれば、親切な人が協力してくれたりくれなかったり。
もちろん、言葉が通じないことにつけ込んで来ようとする悪人もいますが、それは日本でも同じこと。騙されない「人を見る(見抜く)目」を養う必要があるのは言うまでもありません。
あるいは言葉の堪能な者を仲間として同行し、通訳はその者にお任せする代わりに他の何かで役に立ってあげる協力関係を築くなど、やり方はいくらでもあるでしょう。
とまぁそんな具合に気合と根性さえあれば何らかの智恵はひらめくし、大抵の障壁は克服できてしまうもの……そこで今回は、言葉の壁を乗り越えて遣唐使を務め、後世にその名を伝えた橘逸勢(たちばなの はやなり)のエピソードを紹介したいと思います。
たとえ言葉が解らなくても……橘逸勢は奈良時代の末期、延暦元年(782年)ごろに橘入居(いりい)の末っ子として誕生。幼少時から利発だったそうで、平安時代初期の延暦23年(804年)に遣唐使の一人として抜擢されます。
「しかし、唐の言葉は難しいな……」
でもまぁ、行けば何とかなるだろうと行ってみたはいいものの、やはり言葉の壁は厚く高く、なかなか修得できません。
「困ったなぁ……」
流石に日本国の代表として唐くんだりまでやって来て、それで「何も学べませんでした」では税金泥棒の誹りは免れないでしょう。
こうなったら是が非でも、唐に渡ったならではのモノを学ばねば……逸勢の出した答えは、琴と書道。これなら、言葉が通じなくても実際に演奏し、筆を運べばいいからです。
「ごちゃごちゃした理屈は要らんのだ!考えるな、感じろ!魂のままに弦を爪弾き、思うがままに筆を走らせるのだ!」
と思ったかどうだか、一度開き直ってしまえば人生意外に上手く行くもので、琴も書も一流を究めることが出来たのでした。
こと書については当代一流の柳宗元(りゅう そうげん)に学び、唐の人々から橘秀才と呼ばれたのだとか。
やがて大同元年(806年)に日本へ帰国してからも、空海(くうかい)や嵯峨天皇(さがてんのう。第52代)に並ぶ「三筆(さんぴつ)」と称され、現代までその名を残しています。
エピローグかくして書道の大家となった橘逸勢でしたが、あまり出世はしなかったようで、すっかり年老いた承和7年(840年)に但馬権守(現:兵庫県北部の仮任国司)となったものの、老齢と病のため出仕はせず、隠居状態だったそうです。
そんな逸勢でしたが朝廷の皇位継承争い(承和の変)に巻き込まれて謀叛の疑いをかけられ、伊豆国(現:静岡県伊豆半島)へ流罪となってしまいました。
承和9年(842年)8月13日、伊豆国への道中で病没。寂しい最期を迎えましたが、後に潔白が証明されて嘉祥3年(850年)、仁寿3年(853年)に位階を追贈され、名誉を回復したのです。
しかし罪なくして非業の死を遂げた逸勢は怨霊になったと考えられており、貞観5年(863年)にはそれぞれ非業の死を遂げた伊予親王(いよしんのう)、早良親王(さわらしんのう)、文屋宮田麻呂(ふんやの みやたまろ)らと共に祀られ、現代に至ります。
晩年こそ寂しいものでしたが、かつて言葉の壁に挑んで海を渡り、果敢に乗り越えた逸勢の姿は、現代の私たちにも勇気を与えてくれるのではないでしょうか。
※参考文献:
後藤隆之 編『歴史人 9 No.129』ABCアーク、2021年8月 保立道久『平安王朝』岩波新書、1996年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan