ソ連柔道の生みの親としての功績も知られる、日本初の軍神・広瀬武夫の逸話

Japaaan

ソ連柔道の生みの親としての功績も知られる、日本初の軍神・広瀬武夫の逸話

日本初の「軍神」となり、出生地・大分県にて広瀬神社に祀られている広瀬武夫海軍大尉には、ソ連柔道の生みの親としての功績が知られてます。

17歳ごろから講道館で柔道を学び始めたという広瀬の海軍兵学時代は、たった1人で30人を相手にし、講道館の紅白試合では有段者5人を次々に破り、6人目で引き分け、その場で二段に昇進したという強者としての逸話を残していましたが、その彼が1897(明治30)年よりロシアへ留学します。

ある時、ロシア皇帝が外国駐在武官を招いた宴会で、ロシア士官の「日本人は団体で行動するときは強いが、1人1人を見ると弱そうだ。日本にはジュード―というものがあるらしいが、大きいものには通じないだろう」というのを聞いて、カッとなったそうです。

すぐに、日本人個人が弱いかどうか、はたまた柔道というものがどんなものか、見せてやろう、強そうなのを3人ばかり連れてきてもらいたい、ということになりました。

そのロシア士官はニヤニヤ笑ながら雲をつかんばかりの2メートル近い大男を連れてきたのです……

広瀬は171センチで71キロ。他国の武官たちは、広瀬がひねりつぶされるのではないかと心配してみていましたが、最初の男を一本背負いでたたきつけ、残り2人は払い腰とともえ投げで空中高く飛ばしてしまいました。この間、わずか1分足らずだったとか。

皇帝はじめ、みなは一瞬キツネにつままれたようにキョトンとしていましたが、このあとが大変。ウワサを聞いて、柔道を教えてくれという人たちが殺到したのです。彼はこの中から3人を選んで、暇を見ては指導したそうです。

1902(明治35)年、日本に帰国しますがその後日露関係は悪化し、2年後の1904(明治37)年3月27日、日露戦争において旅順港閉塞作戦の従事途中に頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死しました。35歳でした。

広瀬が駐ロ時代に指導した3人の人物の中には、クリシー・オミチェビコフという人物がいました。オミチェビコフは、日露戦争講和条約後に来日、講道館で修行を積み、二段になって帰国し、ソ連発の柔道家として、民警学校やロシアの義勇軍で教えるようになりました。

参考

高橋 安美『軍神広瀬武夫の生涯』(2009 新人物文庫)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「ソ連柔道の生みの親としての功績も知られる、日本初の軍神・広瀬武夫の逸話」のページです。デイリーニュースオンラインは、軍神広瀬武夫柔道ロシアカルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧