徳光和夫インタビュー「オール3であることが私の武器に」自然体を貫く【人間力】

日刊大衆

徳光和夫(撮影・弦巻勝)
徳光和夫(撮影・弦巻勝)

 アナウンサーになってから60年近くたちましたけど、仕事のスタンスはずっと変わっていません。

 1963年に日本テレビに入社し、アナウンス部に配属されたとき、まず私が抱いたのは劣等意識でした。なぜなら、周りは学生時代から成績が優秀だった人ばかりのエリート集団。それに対して、私はいつもオール3でしたから、会話にまったくついていけなかったんですよ。

 でも、劣等意識を抱えたまま過ごしていたら、仕事に支障をきたしてしまう。だからといって、背伸びをしてまで追いつこうとするのも無理がある。そこで考えたのが、「知らないことは知らない」と自分をさらけ出して、自然体でやっていくということでした。

 だから、番組では自分をさらけ出すようにしたんですが、次第に「言っていることがよく分かる」とか「うちのお父さんみたいな人が出てる」といった好意的な声を多くいただくようになった。考えてみると、テレビを見ている人たちは、私のような普通の人が圧倒的に多いんですよね。それで共感を得られたんでしょう。

 つまり、エリート集団の中に入ることによって、逆に“オール3”であることが私の武器になった。自然体を貫き通したからこそ、ここまでやってこられたんだと思いますね。

 入社時は巨人戦の実況をすることを夢見ていたんですけど、2年目に任されたのはプロレス中継。かなりショックでしたが、せっかくアナウンサーになった以上、実況の技術は身につけたかった。だから、先輩に教わったり、必死に練習したりしたんですが、その中で最も大事だったのが「今、目の前で起きていることをどのように描写するか」。

 特に、プロレス中継はオーバー気味と言いますか、どうしてもバナナの叩き売りみたいな実況になるわけです。でも、さまざまな言葉を自由に交えてもかまわない分、表現力も鍛えられたんでしょうね。

■ギャンブルがやりたいからこそ、一生懸命稼いできた

 こうした技術は、歌番組や結婚式の司会者を担当したときに、大いに役立ちました。曲のイントロの部分にナレーションを入れることを「イントロかぶせ」と言うんですけど、これをプロレス中継の口調で、かつ格調を持たせるようにしてやっていると、“名調子”とほめてもらえるようになった。結婚式でも評判をいただいて、一時期は、1日に3回も司会をするほどでしたね。

 そんな私の大きな転機となったのは、朝の情報番組『ズームイン!! 朝!』。プロレス中継や歌番組とはまるで違うジャンルでしたから、79年から9年間、司会者を務められたことは、「今後はどんな番組でもできる」という自信になりましたね。実際、その後の報道関係の仕事や、フリーランスへの転身につながっていったと思います。

 これまで私はずっと働き続けてきましたけど、その原動力になっていたのは、間違いなく競馬やボートレースなどのギャンブルです(笑)。ギャンブルがやりたいからこそ、一生懸命稼いできたし、そのおかげで、家を建てることもできたんです。

 妻も同じように考えてくれているようで、嫌な顔をされたことは一度もありません。本当にできた妻ですよ。今はもう長男と次男も独立し、家には私と妻しかいませんから、これからはのんびり二人で暮らしたいと思っています。

 仕事も、声帯が完全に壊れるまで、しゃべっていたいですね。ただ、昔より、スタミナも声の幅もなくなってきました。その対策として週に1回、東洋医学による整体や温灸などを受けています。これをやると、1週間で弱ってくる体や声をまた健康に戻せるんですよ。

 あと、できれば、ひ孫を見てみたいですね。お年玉をあげて「ありがとう」と言ってもらえるまでは元気でいたい。そのためにも、原動力のギャンブルは続けていかないといけませんね(笑)。

徳光和夫(とくみつ・かずお)
1941年、東京都生まれ。1963年に日本テレビに入社し、アナウンス部に所属。プロレス中継や歌番組などを経て、情報番組『ズームイン!! 朝!』や報道番組『NNNニュースプラス1』の司会者として人気を集め、アナウンサーとして確固たる地位を築く。1989年にフリーに転身し、現在に至る。80歳を迎えた今も、テレビ『路線バスで寄り道の旅』(テレビ朝日系)、『名曲にっぽん』(BSテレ東)、ラジオ『徳光和夫 とくモリ! 歌謡サタデー』(ニッポン放送)など、多数の番組に出演中。

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