豊臣秀吉はキツネに殺された!?稲荷大明神を恫喝した末路が怖すぎる (3/5ページ)
3人目の子は、秀吉が57歳の時に淀が産んだ秀頼です。
秀頼が5歳の時に秀吉が逝去。
その後家督を相続して秀吉の意思を継いだものの、23歳の年に大坂夏の陣にて自害。その短い生涯を終えました。
4人目の子は女の子であったとされていますが、生まれて間も無く亡くなったようで、詳細な記録は残されていません。
このように4人の実子はいずれも短い生涯を終えています。
いずれの子も正室ねねの子ではなく、側室が産んだ子です。
さらに淀の産んだ鶴松と秀頼は、秀吉が不在にしている間に身籠った可能性が高く、秀吉の実子ですらなかった可能性も示唆されています。この世の富の全てを手にしたように見える秀吉ですが、最も望んだであろう自分の子に恵まれることはありませんでした。
迎えた養子でさえ不運に見舞われる子宝に恵まれなかった秀吉は、家臣の1人であった前田利家の娘、豪姫を幼女として迎えています。生まれた子を養子としてを迎えることは、生まれる前から決まっていました。
秀吉が養子を迎える日、心待ちにしていたことが伺えるでしょう。
実際、正室のねねと共に豪姫を溺愛したと言われています。ところが豪姫も病弱でした。
豪姫が病に伏すたび、神楽を踊らせては無事の回復を祈ったと言われています。