現代でも大活躍!江戸を支えた「華の三職」大工・左官・鳶職人たちの語源を紹介

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現代でも大活躍!江戸を支えた「華の三職」大工・左官・鳶職人たちの語源を紹介

火事と喧嘩は江戸の華、なんて昔から言うように、とかくお江戸は火事が多く、関東平野を吹き渡るカラッ風と密集した木造住宅街が、たびたび被害を大きくしたものでした。

しかしまぁ、家なんて言っても現代みたいに大袈裟なモンじゃなく、焼けたらまた建てりゃいいさと気楽に笑う明るさが江戸っ子の身上。

てな訳でまた家を建てるのですが、そんな事だから建築需要は常に高く、職人たちも(よほどの怠け者か、腕の悪くない限り)仕事にあぶれることがありませんでした。

腕と気風が大工の身上。柳下亭種員「童謡妙々車」より

そんな職人たちの中でも「華の三職」と持て囃されたのが大工(でぇく、だいく)と左官(しゃかん、さかん)、そして(とび)。

カネ廻りがいいもんだから「宵越しのゼニぁ持たねぇ」と気前よく、女はもちろん街の人気者だったと言います。

今回はそんな華の三職、大工と左官と鳶の語源について紹介したいと思います。

大工はもともと「おおだくみ」だった

大工の起源をさかのぼると、奈良時代木工寮(もくりょう)にたどりつきます。

仕事に励む工部たち(イメージ)

木工寮に仕えた工部(たくみべ)の内、特に彼らを指揮する長を大工(おおだくみ)と呼びました。

時代が下り、江戸時代に入ると音読みで「だいく」と呼ぶようになり、広く建設職人の代名詞となったのでした。

元は可部奴利だった左官

漆喰(しっくい)を塗って壁を仕上げる左官は、もともと可部奴利(かべぬり。壁塗り)とストレートに呼ばれていました。

その起源は飛鳥時代の仏教伝来にたどり着き、寺院建築(漆喰の技術)が日本に伝えられたころと考えられています。

葛飾北斎「富嶽百景 三編 足代の不二」

可部奴利が左官と呼ばれるようになったのは江戸時代初期の慶長年間、由来には諸説あるようです。

御所の内裏へ上がるためには相応の身分が必要になるため、工事に際して職人たちには仮の官職が与えられました。

大工……守(かみ)
屋根葺き……介(すけ)
内装飾り……掾(じょう)
可部奴利……(さかん、そうかん)

この目(さかん)から音をとり、左官と漢字を当てたそうです。

高いところを「とび」回る鳶職人たち

そして鳶職ですが、足場をくみ上げる材木を引っかけて持ち上げたり、縛り縄を切って足場を解体したりなど(いざ火事の時には)に用いる鳶口(とびくち)という長柄の鉤(かぎ)に由来すると言われています。

火事の時には火消に早変わり。ズラリと鳶口持って集合。「鎮火安心図巻」より

他にもちょっと落語じみていますが、お殿様が屋根上で働く職人を指さして「あれは何じゃ?」と尋ねたところ、家来は職人の上を飛んでいる鳥について訊いているものと勘違い、

「は。あれは鳶にございます」

と答えたという珍説も。高いところを素早く悠然と「とび(跳び、飛び)」回る姿は、まさに「とび職」ですね。

終わりに

以上、お江戸を支える「華の三職」大工・左官・鳶職人について、それぞれの語源を紹介しました。

歌川国輝「衣食住之内家職幼絵解之図」より

当時、江戸町民の日当がおよそ300文(約3,600円)だったところ、三職の人々は540~1,000文(約6,500~12,000円)と2~3倍以上の稼ぎがあったそうで、建設需要の高さがうかがわれます。

現代では賃金待遇や労働環境など多くの課題を抱えている建設業界ですが、「みんなの街は、自分たちが作り上げている」という誇りは変わらず受け継がれていくことでしょう。

※参考文献:

ミニマル+BLOCKBUSTER『イラストでよくわかる 江戸時代の本』彩図社、2020年9月 株式会社 労働調査会「雇用管理研修「基礎講習」資料 いま建設業に求められている雇用管理・改善の課題<令和3年度版>」2021年5月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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