あまりの美しさが招いた悲劇?日本神話が描く兄妹の近親相姦エピソード

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あまりの美しさが招いた悲劇?日本神話が描く兄妹の近親相姦エピソード

女性の美しさを称える表現は昔から色々ありますが、その輝きが衣服をも貫き通す……と言うほどの美貌は、なかなかお目にかかれないでしょう。

今回はそんな美しさを称えられた衣通姫(そとおりひめ)のエピソードを紹介。『古事記』と『日本書紀』では設定やストーリーが異なりますが、それぞれ見ていきましょう。

許されぬ兄妹の悲恋…『古事記』

『古事記』によると、衣通姫は允恭天皇(いんぎょうてんのう。第19代)の娘・軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)の別名と言われ、実の兄である皇太子・木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)はその美しさに耐え切れず、情を通じてしまいます。

衣通姫。菊池容斎『前賢故実』

小竹葉(ささのは)に 打つや霰の たしだしに
率寝(ゐね)てむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるは)しと
さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の
乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

【意訳】笹の葉に霰(あられ)が降りつけ、たしだしと音がするように人々は私を責めるだろうが、こうしてあなたと想いを遂げた以上、たとえ世界を敵に回してもあなたを愛し続けよう。
私は想いを遂げたのだから。薦(こも)を刈り取り、干すためにバラまいたかのように、どれほど乱れようとも後悔しない、あなたと想いを遂げたのだから……。

永らく秘密の関係を保った二人ですが、周囲にはとっくにバレており(※)、允恭天皇が崩御した允恭天皇42年(453年)、近親相姦のスキャンダルをスッパ抜かれてしまいました。

(※)ある朝、允恭天皇が朝食の汁椀をとると、冬でもないのに熱々だった筈の汁が凍っており、不吉に思って占わせたところ、二人の関係が発覚したということです。

「妹と通じるような者に、皇位継承の資格はない!」

安康天皇。Wikipediaより

木梨軽皇子は弟の穴穂皇子(あなほのみこ。第20代・安康天皇)によって皇太子の座を奪われ、伊予国姫原(現:愛媛県松山市)へ流罪となってしまいました。

「きっと戻って来るから、待っていて下さい」

「えぇ……」

しかし衣通姫は居ても立っても居られずに木梨軽皇子を追って伊予国までやって来ます。再会を果たした二人はこの世の名残とてしばし愛し合い、心中して果てたのでした。

美しい側室を迎えたものの…『日本書紀』

一方の『日本書紀』だと衣通姫は允恭天皇の皇后である忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の妹・弟姫(おとひめ)のことを指しており、允恭天皇の寵愛を受けたものの、皇后がこれに嫉妬。

飼い殺しとなってしまった弟姫(イメージ)

一度は入内したものの遠くに移住させられ、允恭天皇は遊猟にかこつけて通い続けたものの、皇后の目もあり、やがて疎遠になったと言われています。

また允恭天皇24年(435年)に木梨軽皇子が軽大娘皇女と通じたのは『古事記』と同じですが、『日本書紀』では即座に軽大娘皇女だけを伊予国姫原へ追放。そのまま二人が再会することはありませんでした。

木梨軽皇子は允恭天皇の崩御後、穴穂皇子との後継者争いに敗れ、自害して果てたということです。

終わりに

衣通姫とは『古事記』だと允恭天皇の娘である軽大娘皇女、『日本書紀』では允恭天皇の側室(皇后の妹)である弟姫とそれぞれ違いますが、昔から美人薄命と言うように、どちらもあまり幸せな生涯は送れませんでした。

着衣を貫き通すほどに輝く美しさも素晴らしい賜物ですが、やはり幸せに生きられるのが一番ですね。

※参考文献:

井上光貞ら『日本書紀(二)』岩波文庫、1994年10月 蓮田善明『現代語訳 古事記』岩波現代文庫、2013年9月 渡邊大門『流罪の日本史』ちくま新書、2017年11月

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