江戸時代の二人の天才 医師・合田求吾と発明家・平賀源内の墓碑銘 (1/2ページ)
江戸時代中期、今から二百年以上前、香川県から同時期に二人の天才が現れた。一人はその名が現代でも知られる発明家・平賀源内。もう一人は、町医者にもかかわらず西洋医学まで学んだ医師・合田求吾である。同郷で年も近い二人の天才は、まったく正反対の人生を歩んだ。どのような人生だったのか、その軌跡を二人の墓碑銘から見ていきたいと思う。
■非常の人 平賀源内(1728~1780)
江戸時代の天才をあげよ、と聞かれたら、平賀源内を思い浮かべる人は多いと思う。エレキテルは言うに及ばず、土用の丑の日の鰻、正月の神社の破魔矢など、死後二四〇年以上たった今でも日本に残る習慣を考案したマルチクリエイターであった。自分の才能は狭い讃岐に抑え込んでおくべきではないと三十三歳で脱藩し、様々な事業、百を超える発明品、さらには浄瑠璃、滑稽本、蘭画というジャンルにまで手を広げ、意のままに己の才能を発揮したように見える源内であったが、彼の脱藩は「仕官御構(おかまい)」という条件つきのものであった。つまり、他藩へ仕官することは許されなかったのである。
そのため、源内は一生、浪人として過ごすこととなり、その半生は彼の天才に見合うに相応しいものではなかった。他藩、あるいは幕府に召し抱えられていれば、滑稽本や浄瑠璃に手をだすこともなかったのである(滑稽本、浄瑠璃は大ヒットしたらしい)。それは彼の最期においても現れている。源内は家の改築を依頼した大工が設計図を盗んだと思いこみ、誤って斬り殺してしまう。小伝馬町の牢獄に捕らえられた源内は、その牢内で破傷風にかかり獄死してしまう(これには諸説あるようだが、記録ではそのようになっている)。「解体新書」を著したことでも知られる杉田玄白は、源内と無二の親友であり、その死を惜しんで墓碑銘に次のような言葉を残した。
■平賀源内の墓碑銘
「ああ非常の人 非常の事を好み 行い是れ非常 何ぞ非常の死なる」
非常の人とは、尋常ではなく凡人の域を超えた人という意味である。意訳をすれば、好みも行いも常識を超えていた源内よ、なんで死に様まで非常識か! となるだろうか。この墓碑銘は東京都台東区橋場にある源内の墓所で見ることができる。