縄文時代はなんと一万年以上もあった!(6)後期・ストーンサークルの巨大祭祀共同墓地への変容
前回は気候的な気温の降下の始まり、抜歯の風習の誕生や、多数の土偶が作られるようになったこと、土器の形も大きく変化していき“火焔型土器”誕生してきたことなどをご紹介しました。
今回は縄文時代・後期についてご紹介していきます。
前回の記事
縄文時代はなんと一万年以上もあった!(5)中期・呪術的な道具が作られ火焔式土器も誕生 縄文時代・後期(紀元前2,000年~1,000年頃)気候としては気温の下降がまだ続いていたと考えられています。
気温が低下していくということは、今まで狩猟していた動物や、採集していた木の実などの生態系が少しずつ変わっていくということです。
人々の生活も徐々に厳しいものになっていったと考えられます。
注口土器 青森県十和田市米田出土 東京国立博物館蔵 重要文化財_ウィキペディアより
土器は東日本では共通の文様が付けられるようになります。そして土器の厚さがだんだんと薄くなっていくのが特徴的です。
ストーンサークルが多くの地域に広まる北海道と北東北を中心に環状列石(ストーンサークル)がさかんに作られるようになります。
秋田県鹿角市、大湯環状列石。日本国内に所在する最大級のストーンサークル ウィキペディアより
秋田県鹿角市十和田大湯にある「大湯環状列石」は、縄文時代後期の最大級の配石遺跡・ストーンサークルです。
河原石を菱形や円形に並べた組石の集合体が、外帯と内帯の二重の同心円状に配置されている配石遺構となっています。
また配石遺構の下には楕円形の穴が掘られ、そこに遺体を埋めるという当時としては一般的な“土坑墓”が見つかったことから、大規模な共同墓地と考えられています。
その周辺調査から“掘立柱建物”が周りに建ち並んでいたと考えられ、これらは墓地の葬送儀礼に関する施設ではないかと推測されています。
後期以降、集団墓が環状列石(ストーンサークル)という視覚的効果を伴った、巨大な祭祀共同墓地として広まっていった背景には、各集落に大規模な土木工事や祭祀を運営する「指導力」または「威信」というような存在があったと思われます。
この頃、縄文時代の社会階層化が生じる構造変化があったのではないかという説があるのは注目すべき点ではないでしょうか。
敷石住居址
梨の木平敷石住居跡(遺構露出保護展示館内)ウィキペディアコモンズより
またこの頃「敷石住居址」という床面に平石を敷いた住居址状の遺構が、関東地方西部から福島県、中部地方東部にまでみられるようになります。
直径5メートル前後の円形・方形に平らな川原石、平石を敷き詰め、中央に石囲いや炉をもつものが一般的です。
建物周辺部のみに石を巡らしたものや、建物の一部が張り出して、把手のある柄鏡形のもの、埋甕や張り出し部分のみ敷石のものなどさまざまなものがあります。
因みに“埋甕”とは土器の中に遺体などを収容して住居跡内外に埋めるという、縄文時代の風習です。
敷石住居址からは埋設土器のほかに、石棒、凹石、石皿、石斧、敲石が出土することが多く、炉の中から焼けた獣骨が出ることも珍しくありません。
柱穴、炉、埋甕があるということは一般住居である可能性が強いのですが、敷石の祭壇や呪術的遺物のが存在することもあり、一般住居中の祭祀場の性格が強いとも言えます。
縄文時代後期頃からの環境悪化に対して祖霊崇拝、狩猟儀礼などの祈りの場が必要になり作られたものとも考えられています。
縄文時代はなんと一万年以上もあった!(7・最終回)縄文時代・晩期に続きます。
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