奪還!奪還!また奪還!「逃げ上手」武将・北条時行が見せた鎌倉武人の意地 (2/3ページ)

Japaaan

建武2年(1335年)のことで、これに先んじて北条高時の弟・泰家(やすいえ)と公家の西園寺公宗(さいおんじ・きんむね)による陰謀が先にあったのですがこれが失敗に終わり、この陰謀に乗る予定だった時行は、独自に諏訪頼重(すわ・よりしげ)らと共に信濃国で挙兵したのです。

後醍醐天皇(wikipediaより)

彼は鎌倉幕府の残党や、新政に不満を抱く御家人をどんどん味方につけて、あっという間に鎌倉に攻め入り奪還しています。

これで北条氏再興かと思われたのですが、京都から足利尊氏が討伐軍として派遣されると、わずか20日で鎌倉を追われることになりました武将。

この戦いは「中先代(なかせんだい)の乱」と呼ばれています。鎌倉時代の北条氏を「先代」、室町幕府の足利氏を「当代」と呼ぶことから、その間である時行を「中先代」と呼ぶようになったのです。

足利尊氏は、ここで鎌倉を支配したことを機に後醍醐天皇に反旗を翻し、その後京都にまで攻め上り、後に室町幕府を開くことになります。

みたび奪還、逃走、そして…

さて時行はと言えば、尊氏の討伐を逃れ再び姿を消すのですが、その後の南北朝の内乱では後醍醐天皇に許されて南朝側の将となり、再び挙兵しています。

この時には、鎮守府大将軍である北畠顕家や新田義貞の子・義興と共に足利家長(斯波家長)を破り、2度目となる鎌倉奪還を果たしています。もっとも、これもその後の石津の戦いを通して奪い返されてしまいます。

またしても時行はここで身を隠し、南朝側の武将として各地を転戦しました。そして1352年の武蔵野合戦を経て、みたび鎌倉を奪還するというしぶとさを見せます。

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