日本史の重要キーワード「朝廷」って何?いつ廃止されたの?武家政権との関係史を紐解く

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日本史の重要キーワード「朝廷」って何?いつ廃止されたの?武家政権との関係史を紐解く

「朝廷」にも歴史がある

日本史を調べていると「朝廷」という言葉が当たり前のように頻出しますが、そういえば「朝廷」の歴史となると漠然としていますね。例えば「幕府」なら、鎌倉幕府はいつからいつまで、江戸幕府はいつからいつまで、とはっきり時代区分にも反映されているので分かりやすいのですが…。

そこで簡単に「朝廷」の歴史を紐解いてみましょう。

まず「朝廷」の定義ですが、「朝」は政治、「廷」は庭を意味します。これは3~4世紀頃から使われた言葉で、君主が、政治状況について臣下に尋ねる場所を指していました。そういう会議が昔は庭で行われていたんでしょうね。

古代日本では、天皇を中心として皇族や公家が集まり、彼らが政治を取り仕切る体制になっていました。この仕組みそのものや、あるいは天皇がいる場所そのものを「朝廷」と呼ぶようになったのです。

藤原宮の中心・大極殿。ここで天皇が政治や儀式を行った

ただ、「朝廷」が形成されていった経緯については別の説もあります。5世紀後半に百済から多くの技術者が渡来したのをきっかけに「官僚組織」が形成され、そこから本格的な朝廷が始まったというものです。

さて、この「朝廷」が単独で政治を取り仕切っていたのは平安時代までです。平安時代末期に平清盛が登場して以降、「朝廷」の歴史は単なる朝廷のみで成り立つ歴史ではなく、常に武家政権あるいは「幕府」との関わりにおいて語られる「朝廷・幕府関係史」のようになっていきます。

ご存じ平清盛は、もともとは武士なので政治には参加できない身分でしたが、その卓越した政治手腕によって太政大臣の地位を手に入れます。今で言うところの総理大臣に匹敵する役職です。

平清盛が造営した厳島神社

絶大な権力を手に入れた清盛は、身内の者を重用し、平氏主導の政治を始めました。こうして平氏や源氏などの武家が台頭し始め、朝廷とも深く関わるようになります。

武家政権との対立、南北朝時代、そして大政奉還

しかし清盛の専横は、公家や他の武家の反発を招くようになりました。そして、朝廷で起こった政権闘争がきっかけで平氏と源氏の戦いが起こり、勝利を収めた源氏方のリーダー・源頼朝が、朝廷とは別の政府として日本初の武家政権・鎌倉幕府を樹立します。

三島大社の源頼朝像

「幕府」の定義ですが、とりあえずここでは、武家のトップである征夷大将軍を中心に、武士が政治を取りしきる仕組みや、将軍の居場所のこととしておきます(幕府という言葉も定義や用法が曖昧に過ぎ、そのうち正式な学術用語としては使われなくなるんじゃないかという気がします)。

さて、朝廷は鎌倉幕府を許しません。朝廷に仇なす「朝敵」と見なして、政権を奪還するべく戦いますが敗北し、逆に力を失います。

ここで大変ユニークな出来事が起き、日本は世界的にも珍しい統治システムを誕生させることになります。権力争いに敗れ、政権を奪われた「朝廷」は滅ぼされることはなく、そのトップである「天皇」の地位もそのままに残されたのです。

それくらい、天皇の権威というものが絶対的だったのか、それとも武士たちは、年号の制定や官位の授与などという仕事は面倒臭いから朝廷に任せておこうと考えたのか、そこは分かりません。

とにかく、なぜか武家政権は、朝廷や天皇からそうした役割まで奪おうとはしませんでした。ここに朝廷と幕府の二重の統治システムが誕生し、その後も幕府は朝廷を重んじ、朝廷もまた、幕府の力を借りながら維持されていくことになります。

鎌倉に幕府が開かれてから、江戸幕府が倒れるまで政治の実権は武家の手中にあり、天皇が政権を握るチャンスはほとんどありませんでした。

例外は、第96代の後醍醐天皇が1333(元弘3)年に鎌倉幕府を倒して政権を取り戻した時です。後醍醐天皇は倒幕後、有名な「建武の新政」と呼ばれる天皇と公家を中心とした政治を始めようとしましたが、うまくいかずに武士の反発を招きました。

後醍醐天皇(Wikipediaより)

そして1335(建武2)年に足利尊氏が反乱を起こし、翌年に京で新しい天皇を即位させると、自分は征夷大将軍の地位を手に入れます。これが、日本史上唯一「朝廷」が2つ存在した南北朝時代の始まりでした。

南北朝時代が終わったのは、室町幕府の3代将軍・足利義満の時です。これ以降、武家政権は室町幕府から江戸幕府へと引き継がれ、最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うまで続きました。

「朝廷」は明治維新で廃止された

ところで日本史の中で見落とされがちですが、明治維新では幕府だけではなく「朝廷」も廃止されています。

というより、もともと1867(慶応3)年の王政復古の政変が摂政・関白、三大臣、議奏、武家伝奏などの朝廷の政治組織を廃絶するもので、これとあわせて征夷大将軍職も廃止された流れで幕府も廃止となったのです。

明治維新以降は天皇中心の社会がつくられていったので、この点が誤解されやすいのですが、古代から続いていた政治組織としての朝廷はここで潰えているのです。残されたのは儀礼などを行う天皇の私的空間を支える組織だけで、これが今で言う宮内庁です。

皇居

明治以降も朝廷という言葉は使われていますが、これは政府という意味です。ちなみに天皇の私的空間という意味では「宮中」「宮廷」という言葉が使われています。

王政復古の大号令というのは、本当に古代の王政を復古するものではありませんでした。正確なコンセプトとしては、神武天皇が初めて国家を治めたのにならって、これから新しい国家をつくっていこう、というものだったのです。

そのように見ると、やはり明治維新というのはそれまでの日本社会・文化を形作っていた要素を徹底的に解体し、それをうまく再構成することで成立したものだったと分かります。そこでは「天皇」でさえもそれまでと同様の立場ではなく、新しい意味を付与された存在だったと言えるでしょう。

おそらくこの「王政復古」があったため、「朝廷」というのが一体何を意味し、いつ消えていったのかが歴史の中ではうやむやになったのではないでしょうか。

日本史の中では、朝廷と幕府は全く役割が違うものとして存在していました。そして時に補完し合い、時に反発し合いながら歴史を形成していたわけですが、結局は明治維新で武家社会と共に消えていったのだと考えると興味深いですね。

参考資料
・佐々木克「幕末の天皇・明治の天皇」(2005年・講談社学術文庫)

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