「鎌倉殿の13人」山本耕史が演じる三浦義村、実は初回放送時点ではまだ8歳の子供だった?
令和4年(2022年)のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第1回から三谷幸喜らしいコメディとシリアスの調和が面白いと評判になっていますね。
「鎌倉殿の13人」コメディとシリアスの調和。初回放送の振り返りと次回のポイント 1月16日(日)放送、2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第2回あらすじを予習時代考証や言葉遣いなど、個人的に言いたいことがないわけでもありませんが、まぁそんな野暮は抜きにして、純粋に三谷脚本によるストーリーや俳優さんたちの演技を楽しませていただいています。
本格的に歴史を学びたいなら、そういう手段やメディアはたくさんありますし、何より家族みんなで楽しめるのが何よりです。
でもまぁ、ツッコミを入れるのもドラマ観賞の楽しみとも言えます(よね?)から、野暮であることは百も承知で言わせていただきましょう。
ご都合主義でもいいじゃないか?山本耕史が演じる8歳の義村少年
役者絵「三浦義村 中村時蔵」精悍な顔立ちに、油断ならないオーラが漂う。
今回槍玉に上g……もとい言及するのは平六こと三浦義村(みうら よしむら)。主人公・北条義時(演:小栗旬)にとって生涯の盟友となる彼は、今作において山本耕史が好演しています。
(久しぶりに拝見しましたが、同じ三谷脚本による大河ドラマ「新選組!」で土方歳三を演じていた頃から全然変わらない青年ぶりで驚きました)
劇中では何を考えているか判らないところはあるものの、のんびり気味に描かれる父・三浦義澄(よしずみ)をしっかり補佐するキレ者で、その後もストーリーの重要な役割を果たすキーパーソンとして活躍する義村ですが……。
実は第1回の設定である安元元年(1175年)時点で、三浦義村は数え8歳の子供です(仁安3・1168年生まれ。諸説あり)。
いくら義時が切れ者であるからと言っても、8歳(満7歳)と言えば小学校1~2年生。頭脳は大人、身体は子供……じゃあるまいし、流石に無理すぎる気がしないでもありません。
……まぁ、それを言い出すと義時は13歳(長寛元・1163年生まれ)、姉の北条政子(保元2・1157年生まれ)は19歳、兄の北条宗時は生年不詳ですが、恐らく20歳前後でしょう。
「政子殿だが。あの歳で嫁に行ってはおらぬようだが、何か訳でもあるのか。あれだけの美しさ。もったいないのう」
※三谷幸喜「鎌倉殿の13人 あらすじ前編」より
源頼朝(みなもとの よりとも)公は劇中そう言いますが、19歳なら決して早いとは言えないものの、まだ嫁ぎ先をえり好みしてもよさそうな年ごろです。
妹の実衣(みい。阿波局)に至っては現代なら小学校中~高学年くらいでしょうか。
※北条宗時について
ほとんど謎。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で片岡愛之助が演じる義時の兄・北条宗時の生涯をたどる※阿波局について
北条義時の妹、そして妻となる”二人の阿波局”の存在ー大河ドラマ「鎌倉殿の13人」とまぁ、あげつらえばキリがありませんが、そこはドラマのご都合主義、年齢の辻褄などは些末なこと(ちょっと語弊がありそうですが……)。
場面づくりのためにそれっぽい年齢らしい演者が個性を発揮して、魅せてくれれば視聴者としては御の字と言うもの。
頼朝公に「ぞっこん」な小池栄子(政子)も、マイペースで立ち居振る舞う宮澤エマ(実衣)も、あふれる若さで突っ走る片岡愛之助(宗時)も、もちろん他の役者たちも、悪役たちも含めてみんな魅力的。
それでいいじゃありませんか。ここは「そういう(それを楽しむ)場」なのですから。より詳しく知りたい方は、改めて調べるのがおすすめです。
義時との共通点?頼朝公の生前は、どこか薄い存在感……で、それはそうとして。これだけでは単なる野暮に終わってしまいますから、せっかくなのでここからは真面目に三浦義村の生涯をざっくり辿っていきたいと思います。
三浦義村が鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に初登場するのは寿永元年(1182年)8月11日。政子の安産祈願のため奉幣使(ほうべいし。寺社への使者)として安房東條庤(現:千葉県鴨川市)へ派遣されました。
初陣と見られる記録は元暦元年(1184年)8月、頼朝公の異母弟・源範頼(のりより)を総大将とする平家追討軍に父と共に参陣します。
激しい戦いに身を投じる義村たち(イメージ)。歌川国綱「源平大合戦」
この時、軍記物語『源平盛衰記』では
「十五六ハ小、十七以上ハ可二上洛一ト被レ定タリ」
※第37巻「平家開城戸口并源平侍合戦事」より
【意訳】15~16歳は子供(資格なし)、17歳以上は上洛≒参陣すべしと定められた。
この時にようやく17歳(満16歳)となった義村は源平合戦の舞台に躍り出る資格を得たことになり、逆算して仁安3年(1168年)生まれと推測されます。
その後も父と並んで頼朝公に供奉し、建久元年(1190年)には父から勲功を譲られて右兵衛尉に任官しました。
義村が存在感を現し始めたのは頼朝公の死後。それまで父の背中に隠れていたのが、頼朝公というカリスマを失った混乱期に表舞台へ出ていくところが義時と似ていますね。
※北条義時について:
2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時ってどんな武士だった?【上】 2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時ってどんな武士だった?【下】 政敵らを次々と粛清、ついには将軍までも?
正治元年(1199年)、梶原景時(かじわらの かげとき)の変においては盟友の結城朝光(ゆうき ともみつ)を讒訴から守るべく景時を追い落としたのを皮切りに、元久2年(1205年)の畠山重忠(はたけやま しげただ)の乱ではかつて祖父の三浦義明(よしあき)を討った重忠ら畠山一族に復讐を果たすなど、鎌倉幕府の命運を左右するキーパーソンとなっていきます。
そして建暦3年(1213年)の和田合戦においては三浦一族の長老となっていた和田義盛(わだ よしもり)を裏切って義時に与したことから
「三浦の犬は友を喰らう(三浦犬は友を食らふなり)」
※『古今著聞集』巻十五「闘争」より
などと謗りを受けることもあったそうです。
また建保7年(1219年)に3第将軍・源実朝(さねとも)が甥の公暁(くぎょう。実朝の兄・源頼家の子)によって暗殺されると、味方するふりをしてこれを討ち取りました。
しかし実は義時と実朝の暗殺を共謀していた(公暁を仕向けた後に粛清した)とか、あるいは義時もろとも一緒に討とうとしていたなど諸説あり、義時とは盟友でありながらも油断のならない関係であったことが窺われます。
鎌倉から源氏将軍が断絶すると、いよいよ朝廷との対立が深まり、「鎌倉殿の13人」ではクライマックスとなろう承久の乱(承久3・1221年)の幕開けです。
※承久の乱について:
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックス!承久の乱はなぜ起きたのか?ここで義村は京都で検非違使を務めていた弟の三浦胤義(たねよし。平九郎)から朝廷に味方するよう誘いを受けるもこれを一蹴。鎌倉幕府の勝利に貢献し、北条氏に次ぐ地位を磐石のものとします。
元仁元年(1224年)に大任を果たした義時が世を去ると、子の北条泰時(やすとき)と北条政村(まさむら)が後継者の座を争い、当初は烏帽子子(※)である政村を推していたものの、政子の説得に応じて泰時に推し変。
(※)えぼしご。元服に際して成人の証である烏帽子をかぶせた子で、かぶせた者は烏帽子親(えぼしおや)となり、両者は時に血縁以上の関係とされました。
その決断によって泰時が家督を継承して第3代執権となり、鎌倉幕府の行く末を大きく左右したのでした(ちなみに政村もその後、第7代執権となっています)。
幕府の宿老として最期まで影響力し続けた義村は延応元年(1239年)12月5日に世を去ります。
『吾妻鏡』によれば「頓死、大中風」との事で、現代的に言えば脳卒中の後遺症(中風。大は重症の意)によって急死したようです。
盟友であった義時の弟・北条時房(ときふさ)も翌月に亡くなったため、承久の乱で敗れ去った後鳥羽上皇(ごとばじょうこう。第82代)の怨霊に祟り殺されたのではないかと噂されたのでした(『平戸記』)。
終わりに以上、北条義時の盟友となる三浦義村の生涯を辿って来ましたが、実に「梟雄」の名に相応しいダーティかつ得体の知れないキャラクターですね。
政敵たちを次々と粛清し、幕府の執権として権力の頂点に立った義時にとって、欠かせない存在であった一方で、いつ寝首を掻かれるか判らない諸刃の剣。
単純に懐刀とは言い切れない緊張感をもちながら、数十年にわたる関係を保ち続けた義時の器量は、並大抵のものではなかったようです。
まだ始まったばかりの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。これからも山本耕史さんの演技に目が離せませんね!
※参考文献:
高橋秀樹『三浦一族の研究』吉川弘文館、2016年6月 高橋秀樹『三浦一族の中世』吉川弘文館、2015年4月 『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 前編』NHK出版、2022年1月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan






