「荘園」は大規模な脱税システムだった!?平安貴族はいかにして私腹を肥やしたのか

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「荘園」は大規模な脱税システムだった!?平安貴族はいかにして私腹を肥やしたのか

公地公民制から「墾田永年私財法」へのシフト

小学校の歴史の教科書から必ず出てくる言葉で「荘園」というものがあります。この、荘園というのは一体なんでしょう。なぜ発生し、どのように消えていったのでしょうか?

これをつぶさに見ていくと、平安時代の貴族が実は「脱税」によって財を成したことや、昔の日本の「土地事情」、そしてそれによって振り回されてきた私たち日本人の姿が見えてきます。

大分県豊後高田市、かつて宇佐神宮の荘園だった田染荘(たしぶのしょう)

そもそも「荘園」が誕生したきっかけは743(天平15)年に発布された「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」です。これは、 723(養老7)年の三世一身法を大幅に改変したものでした。

もともと、大化の改新以降の日本は「公地公民制」を採用していました。全ての土地は天皇が貸し与えたものなので、そこから採れた作物などは一部を国に納めるようにする。こうして、土地も作物も国の財産として運用されていくというシステムです。

しかし問題が起きます。いくら頑張って作物を作ってもどうせ国に取られてしまうので、人々の勤労意欲は低下していったのです。社会主義国家の経済が破綻していくパターンが、実は昔の日本でも発生していたのです。

このため国は財政難に陥りました。仕方がないので、新たに開拓した土地は開拓者自身が所有してもよいという法律を定めます。これが「墾田永年私財法」です。

ここで優遇されていたのが、貴族や寺社でした。

さすがに、墾田永年私財法も「いくらでも土地を開拓していいよ」とは言っておらず、一定の制限を設けていました。しかし貴族や寺社は、農民よりも多くの土地を開墾していいことになっていたのです。とにかく開墾してしまえば、全てその土地は自分のものと言ってもいいほどの優遇ぶりでした。

そのため、貴族や寺社は農民を使って土地を開墾し、広大な土地を手に入れることで財を成します。この時に開墾された土地を「荘園」と呼ぶようになりました。

脱税、財政悪化、そして「武士」が誕生

この「荘園」には、単に貴族や寺社の広大な私有地というだけではなくもうひとつの意味がありました。大規模な「脱税」にも使われていたのです。

荘園にも課税されており、徴収するのは国から派遣された国司(こくし)の役目です。しかし、例えば藤原家の貴族などは国司よりも強大な権力を持っており、彼らが納税を拒否するともうどうしようもありません。

そこで他の荘園領主も、土地を貴族や寺社に寄贈するようになります。実質的に自分が管理している土地でも、形式的に貴族のものとしてしまえば税金は取られません。その上、貴族の名義のもとで仕事をした方が手当てももらえるので、当然みんなそうします。

こうして、脱税システムとしての荘園ばかりが増えていき、国有地はどんどん減っていきます。一説によると、もともと墾田永年私財法そのものが、藤原氏がこうした脱税システムを完成させるために提案したものだとも言われています。

こうして、ますます国の財政は悪化していきます。

ここでもうひとつの動きがありました。国の財政悪化に伴い治安も悪化していったのです。当時の日本では今で言う警察組織が廃止されており、取り締まりができなくなっていたのでした。

そこで登場したのが「武士」です。治安の悪化によって荘園をめぐる係争が次第に頻発する中、貴族たちは腕っぷしの強い人間を雇って武装化し、自身の荘園を守ろうとしたのです。この警備役こそが「武士」の起源です。

荘園システムの崩壊から「領土願望」へ

貴族が私腹を肥やし、国の治安が悪化したので武士を雇って武装する。これは当然の流れで、これでめでたしめでたしとなりそうです。しかしそうもいきません。武士は武士で、「自分たちも土地が欲しい」という気持ちを持っていました。

なぜなら、武士はもともとは土地の管理者たちなのですが、自分の貴重な財産であるはずの土地を貴族に預けている以上は、収入が不安定なままなのです。彼ら武士たちは、本当は純粋な私有地が欲しいわけです。

そこで、武士は次第に武力をもって荘園の実効支配に乗り出します。軍事力を持たない貴族はその実効支配になすすべもなく、荘園からの収入は次第に減少します。

そこで貴族は武士と主従関係を結び、荘園支配を彼らに任せる代わりに一定の収入を自身に渡す「下地中分」というやり方を採用します。この支配形態を担うのが、後に鎌倉幕府を支えることになる「地頭」です。

このように、武士の時代になっても、何らかの権威や権力の傘の元でなんとか荘園制度は維持されていきました。しかし朝廷も幕府も力を失った戦国時代になると、平安貴族たちが脱税のために生み出したこの天才的なシステムも崩壊していきます。

こうして、武士の横領や農民の自立によって実効支配が進んだことで、荘園は目減りしていきます。そして豊臣秀吉による太閤検地でこの脱税システムの残滓は完全に否定され、終焉に至ったのです。

「荘園」は実は貴族や寺社による大規模な脱税システムでした。そのことを理解しておくと、鎌倉時代以降に武士が「土地」あるいは「領地」にやたらとこだわった理由や、豊臣秀吉が「太閤検地」を実施した理由もなんとなく見えてきますね。

参考資料
・誕生から崩壊まで一目で分かる「荘園」元塾講師が分かりやすく5分で解説 – Study-Z

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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