現代アーティスト 内藤礼が問う「命」

心に残る家族葬

現代アーティスト 内藤礼が問う「命」

数字が描いてあるだけだったり、奇妙なオブジェが並んでいたりと、とかくわかりにくい、わからないとよく言われる現代アート。内藤礼の作品もまた、一見して奇妙な代物であり受ける印象もそれぞれだろう。それでも彼女は非常に人気が高いアーティストである。彼女が紡ぎ出す作品は弱く健気な「命」である。人々はそこに何を求めて来るのだろうか。

■凶行

2022年1月15日、大学入学共通テストが行なわれた。東京大学前の歩道上で、高校生2人と男性の計3人が刃物で背中を切り付けられ負傷したという事件が発生した。この事件の容疑者として、高校2年の少年が殺人未遂容疑で逮捕された。凶行に及んだ理由は「東大に入り医師になりたかったが、成績が低下していた」ことに絶望し、「医師になれそうもないから、人を殺して自分も死のうと思った」という(詳細)。医師になろうという人間に何故このような発想が芽生えたのか。彼は「東大」「医師」の肩書が欲しかっただけで、人の命について真剣に考えたことはなかったのかもしれない。

■「あえか」な命

内藤礼は繊細で静謐な印象を与える作品と、その作品を配置した空間を提供する現代アーティストである。内藤の作品を宗教学者・中沢新一はこのように論じている。

ー竹ひごや糸や、ふるえるように細い針金やガラスや、フェルトの布などを使ってつくりだす空間」に、「白っぽくて、柔らかな光」がふるふると揺れている。
彼女はなぜこんなか細く弱々しい光を生み出しているのか。この光は赤子のようである。
その光はか細く弱々しい。されど我々を控えめにそして暖かく包み込む。内藤礼の作り出す光は存在そのものであるー(詳細

内藤は「あえか」( 弱々しい、華奢な)な空間を作り出す。その作品の中にはあまりにか細すぎて見えないものもある。細く薄い糸が下がっているインスタレーションなど、本人すら糸を探すのが困難だという。
ある展示会では広い屋敷のそこかしこに小指半分の人形がぽつりと立っていた。うっかりすると見落としてしまう。子どもたちが宝探しみたいにはしゃいでいた。吹き飛んでしまいそうな、あえかな「ひと」。か細く、弱々しく、ほわほわした、うっかりすると踏み潰してしまいそうだ。
弱々しい光が広い広い世界の中で、「すみません、ちょっとここにいていいですか」とばかりに所在なさそうに語りかけてくる。翻ってみれば我々とて世界の中にぽつんといる「ひと」である。だだっ広い豪華な部屋の大きい鏡に小さい「ひと」がひとりぼっち。世界の広さに潰されそうなちっぽけな光。それは我々自身の姿である。内藤のテーマ「生きていることは、それだけで、祝福されるのか」を突きつけられる。命は弱い。そして温かい。どんなに勉強ができてもわからないことがある。それは考えるのでなく感じるしかない。

■「生の外」からの風景

内藤はベランダから自宅の窓の明かりがともる部屋を見たとき「なにかひとりのひとの小さなけれども、それがすべてである人生を垣間見たような、切なさに胸が締め付けられました」との体験をしている。また「<生の外側>から<生の内側>を見る慈悲の体験だったのではないか」とも。 インタビュアーからこの体験について問われた内藤は「自分を見た」「私の生の全体が、ふわーっと見えた」と答えている(詳細)。
自分の生活空間を照らしている小さい明かりは自分の「生」そのものだったのだ。この「生」の明かりは、夜の街に浮かぶ何十万何百万ある光のひとつに過ぎない。消えても世界に何の影響を与えない無名の光。病気、事故、凶行…らによって簡単に消し去られてしまう。それでもいじましく命の光を放っている。内藤は自分自身がそんな健気な命であることを<外側>から見た。そして愛しさを、慈悲の念を抱いたのではないだろうか。

「生きている人が死者を慰めることがあるけれども、これは逆です。生きている人が死者のまなざしで、生きている人を見つめる。ベランダの外から家の中を見たときの私の感情が、そうだったと思います。生きている人へのいとおしさや慈悲、さきほども話したけれども、そういうものが自分に対して生まれた」(詳細

死者のまなざしで生きている人を見つめる。これは内藤の作品を見つめる我々の視点でもある。吹けば飛ぶような細く弱い光を放ち、生命と存在を控え目に伝えてくる彼女の作品。命が何故尊いのか。なぜ愛しさを感じるのか。それは理屈ではない。理屈で言うならひとの命は決して地球より重くはない。今日も理不尽な理由で多くの命が散っている。それでも内藤礼は問い続ける。

「生きていることは、それだけで、祝福されるのか」

■命の学び

件の少年は高偏差値で優秀な成績だったようだ。試験に文学や宗教の問題が主題されても要領よく答えただろう。「慈悲」や「愛」などについて問われても模範的な解答を並べるに違いない。それは蓄積された知識、情報に対する処理能力が優れているだけ。AIと同じである。
知識を詰め込む「勉強」も必要だが、それ以前に大切な「学び」がある。世の中には「命」や「生」と「死」について教えてくれる様々な芸術や文学がある。受験勉強を通じてさえ、学び方によっては、例えば生命の営みなどの中に見出すことができるはずである。知識偏重の現代において子どもにそのような「命の学び」を与えることは大人の務めではないだろうか。

■追記

内藤の作品を観ていた筆者の隣に、5歳くらいの女の子と母親がいた。しばしの時間が流れた後、女の子が小声で囁いた。

「おかあさん」

「なに?」

「大好き」

彼女は何を思って囁いたのか。なんとも心地よい、あえかなる空間の一幕だった。

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