京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【前編】

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京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【前編】

多くの人が訪れる世界的観光地京都市の中にあって、ほぼ毎年トップの来場者を誇る清水寺。清水の舞台や音羽の滝で知られ、年末の恒例となっている「世相を表す今年の漢字」が発表されるのもこのお寺です。

京都を初めて訪れる人はもちろん、京都に足しげく通う人にとっても、清水寺詣では京都観光の王道ではないでしょうか。

そんな清水寺ですが、誰が建てたお寺なのかは意外と知られていません。

今回は、清水寺の建立に深く関わった坂上田村麻呂清水寺の縁起について、2回にわたりご紹介します。【前編】では、征夷大将軍と坂上田村麻呂についてご紹介しましょう。

坂上田村麻呂が就任した征夷大将軍とは

武家として初めて征夷大将軍となった源頼朝。(写真:Wikipedia)

皆さん、征夷大将軍というと、誰を思い浮かべますか?おそらくは、鎌倉幕府を開いた源頼朝とか、江戸幕府を開いた徳川家康などが一番多いのではないでしょうか。

そもそも征夷大将軍とは、何なのでしょうか?簡単にいうと「征夷」とは「蝦夷を征討」するという意味で、その将軍が「征夷大将軍」なのです。そして、征夷大将軍は、東北を攻略するために天皇に任命された軍事指揮官でした。

後に征夷大将軍は、幕府を開く武士の棟梁に与えられる称号になります。しかし、征夷大将軍の歴史を振り返ると、それは奈良時代から平安時代初めに、中央政権である朝廷が行った蝦夷征伐に端を発するのです。

第50代・桓武天皇。平安京造営と蝦夷征伐を二大スローガンとして政治改革を進めた。(写真:Wikipedia)

792年、桓武天皇は平安京(京都)に都を遷しました。遷都の理由は、教科書などによりますと強大化した奈良の仏教勢力と決別するためと書かれています。しかし、最も大きな目的は、停滞する律令政治の立て直しにありました。

奈良時代の終わりには、大化の改新以来進めてきた律令制の根本である公地公民制と班田収授法はすでに実態をなさなくなっており、朝廷は徐々に財政難に陥っていたのです。

そこで、朝廷が目を付けたのが、未だ中央政権の版図に含まれていない東北地方でした。東北を支配することは、新たな領土を手に入れることになります。さらに、東北には朝廷にとって大変魅力的なものがありました。

それは、でした。奈良時代から東北では金脈が発見されており、東大寺大仏の身体を覆うために使われました。朝廷は、この金を手に入れることを一つの目的として東北攻略を進めたのです。

しかし、東北にも人間は住んでいます。東北経営は、その人々を征服しなければ成り立たなかったのです。朝廷は、東北の民を「鬼(おに)」とみなし、「蝦夷(えみし)」と呼んで卑下しました。

「東北に住む奴らは、朝廷に逆らう反逆の輩で、文化の低い野蛮人だ」

このようなレッテルを張り、蝦夷征伐は正義の戦いであることを印象付けたのでした。

朝廷は、奈良時代から、度々東北に軍を送り、多賀城をはじめとする橋頭保を築いてきました。桓武天皇は、平安京造営蝦夷征伐を二大政策とし、東北に大軍を発したのです。

もちろん、こうした朝廷に対し東北の民達は激しく反発しました。そして、胆沢を拠点とするリーダーの阿弓流為(あてるい)とその同志である母禮(もれ)が指揮をとりはじめると、朝廷軍は大敗を喫することになったのです。

そんな状況を打開するために、桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命します。これを境に、朝廷軍は蝦夷を圧倒し、東北経営を進めて行くことになります。

まずは、ここまでの歴史をお知りおきください。この経緯が、清水寺建立に深く関わっていくと思われるからです。

802年に坂上田村麻呂が築城したとされる胆沢城跡。(写真:Wikipedia)

坂上田村麻呂とはどんな人物

浮世絵に描かれた坂上田村麻呂。(写真:Wikipedia)

中学・高校の歴史の教科書をみると、平安時代初めの章に坂上田村麻呂の行った蝦夷征伐が重要事項として取り上げられています。ですので、多くの方は、坂上田村麻呂の名前はご存知だと思います。

坂上田村麻呂は、奈良時代末期の758年に坂上刈田麻呂(かりたまろ)の子として生まれました。坂上氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)の一族で、代々弓馬などの「武芸」をもって朝廷に仕えた氏族でした。

父の刈田麻呂は、藤原仲麻呂(恵美押勝・えみのおしかつ)の乱が起こると、孝謙天皇側の武官として参戦します。この戦いで、刈田麻呂は仲麻呂の三男訓儒麻呂(くずまろ)を射殺し、従四位下の位を得るとともに、坂上氏を地方貴族から中央貴族に押し上げることに成功しました。

 田村麻呂の父・坂上刈田麻呂。中央貴族としての坂上氏を確立した。(写真:Wikipedia)

785年、坂上田村麻呂は28歳にして従五位下に昇進し、軍事貴族としての道を歩みだします。そして、桓武天皇が大伴弟麻呂を征東大使に任じた794年の第二次蝦夷征伐で、副将軍である征東副使を命じられました。

この時、田村麻呂は近衛将監・少将(正五位下)という官位にあり、桓武天皇側近の武官として、天皇から相当な信任を得ていたようです。

この時代の人々の田村麻呂への評価は、以下のようなものでした。

「武勇は人に勝る。しかし、それに奢ることなく性格は寛容で、部下をとても大切にする」

そうした田村麻呂の人柄は、桓武天皇が蝦夷征伐軍を組織するにあたり、その軍士らの検閲にあたらせていることからも伺えます。

797年、桓武朝では実質上最後となる第三次蝦夷征伐が計画されます。この時、田村麻呂は征夷大将軍を任じられ、その4年後の801年、4万の軍を率いて東北に向かいました。

この戦いで、かつて朝廷軍を完膚なきまでに破った阿弓流為(あてるい)と母禮(もれ)が降伏します。田村麻呂は彼らを伴って平安京に凱旋するものの、両雄の器量を認めたうえで、今後の蝦夷経営のために役立たせようと、朝廷に2人の助命を嘆願しました。

 阿弓流為、母禮が処刑されたとされる地(枚方市)に残る「伝阿弓流為母禮之塚」。(写真:Wikipedia)

しかし、彼らに対して非常な憎悪を抱く朝廷首脳部は、2人を許すことなく処刑してしまいました。まだ公卿(参議以上の参政官)の地位になかった田村麻呂は、おそらくは自らの力不足を実感し、さらに阿弓流為(あてるい)と母禮(もれ)をはじめとする蝦夷征伐で命を落とした人々への慚愧の念に堪えなかったことでしょう。

その後、田村麻呂は陸奥国に赴任し、鎮守府将軍として蝦夷経営に関わりました。802年には、東北経営の拠点である胆沢城に僧侶を招き、蝦夷征伐で没した敵味方の冥福を祈ったと記録は伝えています。

平安京に戻った田村麻呂は、805年に坂上氏としては初めて参議に昇進し、公卿に列します。桓武天皇との関係も良好で、娘の春子を妃として天皇家と外戚関係を結び、桓武天皇が崩御した後も、平城・嵯峨朝で昇進を重ね、正三位大納言に昇り、811年に54歳で亡くなりました。

 第52代・嵯峨天皇。父桓武に続き田村麻呂を信任。その死後、京都の守護神に定めた。(写真:Wikipedia)

その死に際し、嵯峨天皇は1日政務をとらずに喪に服します。そして、田村麻呂に甲冑を纏わせた上で埋葬し、以下のように命じました。

「もし国家に非常時が起これば、田村麻呂の墳墓が鼓を打ち、雷が鳴るように知らせてくれるだろう。今後、将軍の地位にある者が出征する際には、先ずは田村麻呂の墓に詣で、その加護を祈ることとする」

優れた武人として、光仁・桓武・平城・嵯峨の4帝に仕えた坂上田村麻呂は、死して平安京の守護神となったのでした。

【前編】はここまでとします。【後編】では、坂上田村麻呂が清水寺の創建に深く関わった経緯とその思いを述べていきます。

◎参考文献

『京都ぶらり歴史探訪ウォーキング』メイツユニバーサルコンテンツ・京あゆみ研究会著(執筆・編集・撮影:高野晃彰)

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