国益維持のための聖徳太子の秘策とは?「遣隋使」は隋との交流だけが目的ではなかった

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国益維持のための聖徳太子の秘策とは?「遣隋使」は隋との交流だけが目的ではなかった

「遣隋使」が行われた理由

聖徳太子が行った有名な政策に「遣隋使(けんずいし)」があります。

今まで、私などは「遣隋使は、当時の倭国が大国である隋から文化などを学ぶために行われたものだ」……という漠然とした認識しか持っていませんでした。もちろん一般的にはこのように理解されていますし間違いではないのですが、これは一面的な解釈です。

「遣隋使」が行われた本当の理由は、実は当時の国際関係をつぶさに追っていかないと分かりません。本稿ではそれを明らかにしたいと思います。

6世紀末期、およそ300年近く分裂状態にあった中国大陸にようやく統一政権が誕生しました。楊氏が興した隋帝国です。

隋朝の二代目皇帝・煬帝(Wikipediaより)

もともと、中国大陸の王朝の皇帝たちは、自分のことを天の命令を受けて全世界を支配する絶対的存在だと考える傾向がありました(今もそうなのでしょうか?)。ジャイアンみたいなもので、「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」といったところでしょうか。

よって、隋の出現によって周辺諸国はザワつきました。特に朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三国は対応を迫られることになり、緊張が一気に高まります。

さてこの時、倭国(この時、日本という名称はまだありません)の斑鳩宮を「官邸」として国際政策に携わっていたのが、後にいわゆる聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのみこ)です。

厩戸皇子に突き付けられていた課題

もともと彼も朝鮮半島の三国と同じように、中国を中心とした東アジア世界で自国の権益をどのように維持するか、そして拡大・強化するか、という課題に取り組んでいました。

5000円札に描かれた「聖徳太子」

具体的に当時の彼が対応を迫られていた問題としては、朝鮮半島南部の新羅と百済に挟まれる形で存在していた「伽耶」のことがありました。

伽耶は小国の寄せ集めでした。6世紀の半ば過ぎに新羅に併合されたのですが、倭国はこの伽耶の中の小国のひとつ「任那国」の権益はこっちのものだ、と主張していたのです。

だから倭国は、新羅に対して「伽耶の中の倭国の権益だけは引き続き保障しろ」と要求していました。

そこで、新羅が倭国にしぶしぶ差し出したのが「任那の調」と呼ばれる品物です。それは、かつて任那国から新羅の大王に献上された特産品などでした。

ところがその後、新羅はだんだん「任那の調」の献上を怠るようになります。倭国は軍事的な威嚇や実際の出兵などで脅かしますが、あまり効果はありませんでした。

そこで厩戸皇子は別の方法を考えます。それが、超大国である隋に働きかけるというものでした。

先述した朝鮮三国は、すでに隋に従属して貢物を捧げています。そこで倭国は隋から「倭国は新羅よりも上位の国である」というお墨付きをいただいて、新羅に対してさらに圧力をかけようというわけです。

そのための具体的な方法が、遣隋使でした。

「圧力外交」としての遣隋使

遣隋使については、書簡を読んだ当時の皇帝が激怒したとか、そんな内容だけが有名になっている感がありますが、実際にはこれは大した外交戦略でした。隋帝国の圧倒的な国力を利用して、厩戸皇子は戦争を起こすことなく目的を達したのです。

608年には、裴世清という人物が、帰国した小野妹子とともに隋の使者として倭国にやってきて、推古天皇の宮殿である小墾田宮に参内しています。さらに翌々年の610年には、新羅はわざわざ任那の使いを伴って倭国へ朝貢してきました。これは厩戸皇子の確かな実績でした。

しかし、618年には皇帝の煬帝が殺されたことで隋は滅亡します。またしても、倭国は自力で新羅に対して「任那の調」の献上を強制しなければならなくなりました。

そして621年、厩戸皇子は、新たに建国された唐との国交樹立を模索していたところ、斑鳩宮で亡くなりました。

聖徳太子が建立した四天王寺

こうして見ていくと、遣隋使というのは単に大国・隋と交流するためだけに行われたのではないことが分かります。これは新羅に対する、武力を伴わない間接的な圧力外交の一種だったんですね。

参考資料
遠山美都男・関幸彦・山本博文『人事の日本史』朝日新書・2021年
歴史スター名鑑

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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