男性だけではなかった。赤紙が届き、覚悟を決め戦地に赴いた女性「従軍看護婦」たちとは?
赤紙とは
赤紙とは帝国陸海軍の召集令状などのことで、その紙が赤色だったことから「赤紙」と呼ばれていました。
最初は真赤に染色されていた赤紙ですが、戦争が長引くにつれて染料の材料が手に入らなくなり、終戦時にはピンク色になっていたのだとか。赤紙は基本17歳以上の男性の元に届くものでした。
しかし、なかには10代の若い女性の元に届くことがあり、招集された女性は「従軍看護婦」として戦地に駆り出されたのです。
従軍看護婦とは従軍看護婦とは、軍隊に同行し、野戦病院や病院豪に勤務して医療活動をおこなう女性看護師のこと。
日本では、日本赤十字社から多くの従軍看護婦を送り出しており、日中戦争から太平洋戦争までのあいだに戦地へ赴いた女性は約5万人、その多くが20代前半だったといわれています。
「国のために戦う兵隊を癒したい」と自ら志願して従軍看護婦を目指した女性も多くいましたが、赤紙が届いたことで望まずに戦地入りしたケースもありました。
野戦病院の実情戦時中の野戦病院では常に、患者があふれかえっていました。治療に携わった看護婦は、手の皮が全部剥けるほど過酷な状況で休む時間もなかったとか。
さらに薬は貴重だったため不足しており、ほとんどの患者に十分な治療を施せなかったといいます。
看護婦長の教え1945年8月15日、第二次世界大戦で日本が敗北したことで終戦となりました。
とある野戦病院では、看護婦長らが「外国人に襲われた時、大和なでしことして恥じないよう立派に死んで」と言い、看護婦たちに致死量の青酸カリを持たせたそうです。
また、別の野戦病院では「死ぬときは一緒だから命を預けてほしい」と、薬品名も伝えず薬を渡したと言います。
もとより、戦地に赴いた看護婦たちは「覚悟」を決めて生活するよう命じられていたそうです。
青春時代ともいえる20代前半の華々しい時期を、国や兵のために尽くした当時の女性たちには尊敬の念を抱くとともに気の毒な感情もあふれてきます。
彼女たち看護婦や兵士たちのように辛い青春を送る国民が出ないよう、平和な世の中が続くことを祈るばかりです。
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