今も昔も人は神道・仏教を区別せず、願いや救いを求め続けてきた

心に残る家族葬

今も昔も人は神道・仏教を区別せず、願いや救いを求め続けてきた

今年の1月11日に福岡市東区の筥崎宮(はこざきぐう)で、780年続く「承天寺一山報賽式(じょうてんじいちざんほうさいしき)」という、珍しい儀式が執り行われた。これは、拝殿に上がった承天寺の僧侶たちが、八の字に歩きながら読経する「筥崎諷経(ふぎん)」または「巡り経」を奉納するものだ。仁治2(1241)年5月、博多の臨済宗の名刹・承天寺を開いた名僧・円爾(えんに。聖一(しょういち)国師。1202〜1280)が宋代の中国での仏道修行を終えて帰国の途についた折、突然の嵐に見舞われた。船は今にも転覆しかかっていた。そこで円爾は、筥崎宮にご加護を祈った。その祈りは叶えられ、円爾は無事に帰国することができた。その翌年1月に、円爾がお礼参り(報賽)をしたことが、神事の始まりだ。それ以降1度も途切れることなく、続けられている。このような、仏教と神道が融合した信仰形態、いわゆる神仏習合の事例が今日にも残っていることは、日本において、決して珍しいことではない。

■仏教伝来とともに神仏習合が始まった

欽明天皇(在位539?〜571?)の時代に、日本に仏教がもたらされた。当時の日本では、神祇信仰は主に山や岩など、自然神を祀るものが広く行われていたが、それらは金光明経(こんこうみょうきょう)・法華経・般若経などの数多くの経典や理論が存在する仏教とは全く異なるものだった。しかし、仏教における壮大な伽藍、そしてその中には輝く仏の姿をかたどった仏像が安置され、周囲には金製の仏具や壁画やお供えの花々が配されている。しかもそこでは、色とりどりの法衣を纏った僧侶たちが、謎めいた言葉を唱えている…このように不思議で異質、それゆえに荘厳雄大で神々しいものとして受け止められた仏教だったからこそ、高邁な教えよりも、神祇信仰のように、超自然的な力をもって、国や地域や人々を災厄から救ったり、五穀豊穣などの願いを叶えてくれたりするものとして、当時の日本人の心を捉えていったのである。

また仏教伝来後に、山や岩に宿るものとされ、その「場所」そのものが「聖地」として、信仰の対象だった状況から、神をお招きし、それを祀る施設である神社が整えられるようになった。そしてその神社のそばや境内に、神社や神を仏法で護り、なおかつ「神も仏も一体である」という考えに則って、「神宮寺」も建てられた。

■神仏習合の最も有名な事例

このような神仏習合の最も有名な事例のひとつに、聖武天皇(在位724〜749)の、八幡神への強い信頼または信仰心が挙げられる。天平15(743)年、天皇は仏教による鎮護国家の願いを込めて、奈良の大仏造立の詔を発した。その上で詔の4年後に、豊前国宇佐(現・大分県宇佐市)の八幡神に大仏鋳造成就の祈願を行った。更に当時は、大仏に用いられる黄金が不足していたのだが、八幡神が託宣の中で、「われ天神地祇を率い、必ず成し奉らん。銅の湯を水とし、我が身を草木土に交えて障ることなくなさん」と、大仏の完成を約したという。そして晴れて大仏鋳造が完了した天平勝宝元(749)年11月に、八幡神は都に向かうと託宣を発し、その1ヶ月後に壮麗な神輿に乗って、宇佐八幡社の禰宜杜女(ねぎもりめ)らと共に上京した。それに当たり朝廷側は「迎神使」2人を選び、経路の諸国には兵士100人以上を派遣し、警護に当たらせた。更に神輿が入京した折には、官人50人に出迎えさせた。そして八幡神のために新たに神殿が造営されたばかりでなく、僧侶40人に7日間の悔過(けか。自らの罪を懺悔し、その報いを逃れることを求める儀式)を行わせたりしたという。

■外来文化の流入減とともに神仏習合が進んだ

寛平6(894)年、菅原道真(845〜903)の遣唐使廃止の提言から、いわゆる外来文化が日本国内に流入しなかった平安時代中期以降になると、和歌や文学、絵画や建築などにおいて、日本独自の文化が興隆した。それによって一層、支配層のみならず、一般の人々の間にも神仏習合が進んだ。

■仏教の発展

その後、貴族から武士の支配が行われるようになった鎌倉時代に入り、新しい仏教宗派、浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・曹洞宗・臨済宗と6つも開かれた。禅宗において、道元(1200〜1253)による曹洞宗では、開基当初は「純粋禅」を唱え、厳重な出家主義を貫いた。それゆえ、中央権力への接近を避け、空海(774〜835)の真言宗や最澄(766または767〜822)の天台宗に見られる、密教的加持祈祷も排していた。また、先の承天寺のような、栄西(1141〜1215)による臨済宗の場合は、鎌倉幕府の手厚い庇護のもとで発展したことから、禅宗以外の宗派のように、多くの信徒を一般に求める必要がなかった。それゆえ、民衆が信じる日本の諸神祇に「接近」することなく「禅」の教えを極めていった。しかし室町時代に入ると、禅僧の間で、漢詩文づくりがさかんになった。その結果、平安貴族の間で文道の祖と仰がれていた菅原道真を祀った天満天神が聖神と捉えられ、崇敬の対象となる。更にそれが、天神が唐に渡ったという「渡唐天神説話」を成立させる要因ともなった。それらの背景には、宋から来日した禅僧によって、儒教・仏教・道教は何の矛盾もなく、併存するものであるという「三教一致」論がもたらされていたものが、時を経て、日本においては「道教」が日本の諸神への信仰に置き換えられ、神祇・儒教・仏教の「三教一致」論が天神信仰を通して、新たな習合を生むことになった。こうした一連の状況から、筥崎宮において「承天寺一山報賽式」が780年も執り行われているのだろう。

■福岡市博多区吉塚にある飛来(ひらい)神社の社伝


福岡市博多区吉塚に、飛来(ひらい)神社という小さな神社がある。社伝によると、かつてこの地に「薬師の湯」という温泉があったことから、大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)を勧請し、湯守の神としていた。しかし、最澄が中国から博多津(現・博多湾)に戻った大同元(806)年、東光院を開き、自ら刻んだ薬師像を安置した。それに伴い、神社が現在地に移され、土地の豪族・安武氏に「飛来権現」として祀られていた。時を経て、江戸時代においては、地域の産土神としての崇敬を集め、福岡藩主の黒田家からも篤い信仰を寄せられていたという。今日では「おひらい様」として、子供の守り神、子授けの神として、地域の人々に守られている。「飛来神社」の「飛来」だが、祀られていた神様がもともと、東光院に飛んできていたのだが、その後、この地に飛んできたということから来るという。また「おひらい様」は子どもが大好きだという言い伝えから、かつては夏になると、近在の子どもたちが神像を持ち出して川に投げ込み、浮き袋がわりにして遊んでいた。また、少彦名神は手足が不自由であるため、手足の痛み快癒のご利益がある。もしも痛みが引いた際は、木で作った手形足形を奉納していたという。

このような社伝は、日本全国の神社において、特に珍しいものではないのかもしれない。しかし飛来神社には、本殿の前に、頭部の形状が微妙に異なるものの、お地蔵様によく似た像が2体祀られている。これらの像に関し、具体的なことはわからない。子どもが遊んでいた神像なのか。赤いよだれ掛けから「お地蔵様」に見えるものの、実は祭神の大己貴命と少彦名命を象った神像なのか。医師の森直郷が昭和9(1934)年、『九州日報』のコラム「信心と伝説」の中で取り上げていたところによると、子どもの歩みが遅かったり、病があったりした際は、この2体の「石神」と「石仏」につけられている「胸かけ」(よだれかけ)をいただいて、子どもにかけてやる。快癒したら、新しいもの2枚と、七色の菓子を、お礼参りの折にお供えするという。しかも「おひらい様」のご利益が広く知れ渡っていたことから、当時では、遠くは中国の大連、そして鹿児島あたりからの参拝者もいたという。とはいえ、飛来神社に祀られた「神像」の形状や持物(じぶつ)が、仏教における「お地蔵様」に見えるように形づくられていることこそが、先に述べてきた、日本古来の神仏習合の一事例なのかもしれない。

■最後に…

大政奉還後の慶応4(1868)年の神仏分離令など、明治時代初期の廃仏毀釈によって、今日では、仏教、神道と、「区切る」、または「分離している」のが「当たり前」になってしまっている。しかし、過去においても今日においても、人を救う、願いを叶える、亡くなった「いのち」を悼む…などにおいては、「仏教」「神道」と区切ることなく、「神仏習合」も時として「あり」ではないか。宗教の違いによって、時として大規模な迫害や内乱・騒擾が起こることは決して珍しいことではないのだが、「違い」そのものや、「正統」と「異端」などと峻別することによって、民衆の素朴な信仰・信心の心までもが「分断」「排斥」されてしまうのは、とても悲しいことだ。そうは言っても、そのような愚行を犯してしまうのは、神様でも仏様でもない、「人間だから」ということになるのだろうか。

■参考資料

■森直郷「信心と伝説:お飛来さま」『九州日報』1934年12月28日 朝刊(9頁)
■田鍋美智子「飛来神社」西日本新聞社・福岡県百科事典刊行本部(編)『福岡県百科事典 下巻』1982年(568頁)西日本新聞社
■逵日出典『神仏習合』1986年 六興出版
■「東光院境内」『福岡市の文化財』
■「八幡大神ゆかりの伝承 東大寺の大仏建立」『八幡総本宮 宇佐神宮』
■「承天寺一山報賽式」『筥崎宮』

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