調子に乗り敗者をなぶる徳川家康に猛反論!戦国武将・平塚久賀かく語りき

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調子に乗り敗者をなぶる徳川家康に猛反論!戦国武将・平塚久賀かく語りき

世に「水に落ちた犬は棒で叩け」などと言われるように、苦境にある者は何かとなぶられがちです。

どうせ反撃されまいと高をくくっているのでしょうが、中には毅然と反論する気骨者も少なくありません。

そこで今回は『名称言行録』より戦国武将・平塚久賀(ひらつか ひさよし)のエピソードを紹介。何人(それこそ天下人)であろうが、間違っているものは間違っているのです。

吝(しわ)い家康の仕官を断る

平塚久賀は生年不詳、三浦氏の末裔・平塚三郎入道無心(さぶろうにゅうどうむしん)の子として生まれます。

兄に猛将として名高い平塚孫九郎為広(まごくろう ためひろ)がおり、負けず劣らず大剛の者として知られた久賀に、徳川家康(とくがわ いえやす)からオファーが来ました。

しかし、同時期に石田三成(いしだ みつなり)からもオファーが来ており、久賀はどっちに仕官したものか考えます。

「内府(家康)殿はしわい(吝い)から、手柄を立てても褒美をケチられてしまうだろう」

それなら……ということで石田家に仕官した久賀は、越中守の名乗りを許されました。

「よぅし、張り切って武功を立てるぞ!」

井伊家伝来「関ヶ原合戦図」より、平塚為廣の最期。

と慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の合戦で兄ともども奮戦した久賀。しかし武運つたなく味方は敗れ、兄は討死。自身も生け捕りにされてしまったのでした。

調子に乗った家康を批判

「くっ、殺せ!」

「フフフ……そうはいかんぞ」

家康の前に引き出された久賀は、ここぞとばかりに貶されます。

「バカめ。我が誘いを断って治部(三成)につくとは、つくづく人を見る目がないのぅ。それで、武功を立てて褒美はいかほど貰ったのか……あぁん?」

勝てば官軍負ければ賊軍……負けてしまえば褒美もへったくれもない、たとえケチでも勝馬に乗らねばのぅ……とまで言ったかどうだか、頭に来た久賀は家康に藩論します。

「武士が戦さに臨んで捕らわれるのは恥辱にあらず。そもそも内府殿とて元は今川の人質だったではないか。にもかかわらず他者を笑うなど滑稽千万ではないか!」

月岡芳年「関ヶ原勇士軍賞之図」より、徳川家康

「ぐぬぬ……」過去のトラウマ?を衝かれて歯がみする家康に、久賀の批判は止まりません。

「さらに内府殿は故太閤殿下(秀吉)の遺命に叛いて若君(秀頼)をないがしろにし、天地神明に誓ったはずの起請文を破ってもこれを恥とも思わない様子。まったく武士の風上にも置けぬわい!」

「おのれ、言わせておけば!」

今にも刀の柄に手をかけそうな家康でしたが、ここで斬り捨てては完全論破されたままになってしまいます。

そこで家康は怒りを堪えて久賀を解放。生かしておくことでかえって苦労させようと、遠回しな仕返しを図ったのでした。

終わりに

解放された久賀は消息を絶ち、一説には生き延びて慶長20年(1615年)大坂の陣で討死したとも言われます(為広の子・平塚為景と混同?)。

たとえ敗れたからと言って尊厳を損なわれ、なぶり者にされる筋合いはない。逆に勝ったからと言って、不義の振る舞いが許される訳ではない……久賀の毅然たる態度は、そんな道理を訴え続けているようです。

※参考文献:

岡谷繁実『名将言行録 現代語訳』講談社学術文庫、2013年6月

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