日本史上最高の貴族といえる藤原道長の臨終行事と浄土思想とは (2/3ページ)
平安時代における祈祷やまじないは絶大な信頼があったはずである。密教を天台思想のおまけのような形で持ち込んだ最澄(767〜822)より、最新の真言密教を身につけた空海(774〜835 )が時の朝廷に重んじられたのは当然といえた。天皇をはじめ貴族は病に苦しむ時、密教の加持祈祷による治癒を期待した。また陰陽道も重用された。陰陽師は主に天文や暦を読みとく占術が仕事だったが、密教に劣らぬ呪術師でもあった。貴族の身の回りに変異が続けば陰陽師が鑑定し呪いを解いた。現代でも人気のある安倍晴明が法成寺にかけられた呪術を見破り道長を救ったという伝説がある(宇治拾遺物語)。密教にしろ陰陽道にしろ最新の科学・医学であった。しかし道長が最終的に自身の信仰として選んだのは浄土の教えだった。恵心僧都源信(942~1017)の「往生要集」を熟読し、念仏を毎日十万遍唱えたという。念仏を唱え極楽浄土を観相(イメージ)し往生を願う浄土思想は、複雑深遠な密教や陰陽道の体系に比べていかにも単純な夢物語である。道長は既に藤原氏の勢力は盤石であったとはいえ様々な政略謀略渦巻く中央政界においてここまでの栄耀栄華に至った。道長によって失脚した者は数知れない。政治家というリアリストだった道長が最新の科学に背を向けて、夢見る浄土思想を選んだ理由はなんだったのか。
■「死」というリアル
道長の浄土思想への傾倒は視点を「死」という究極のリアルに移せば不思議ではない。道長は人は必ず死ぬというリアルから目をそらさなかったのではないだろうか。加持祈祷や呪術がどれほど霊験あらたかで難病を治癒させることができたとしても、死ぬまでの時間を多少延ばす程度である。未来のある若者ならともかく、平均寿命5、60歳程度の当時において壮年を迎えた者が多少生きながらえたにしても、結局数年後にはゴールが待っている。すべてを手に入れた道長の最後の望みは死後の道筋だった。病苦に苛まれた晩年だったが不老長生などに目を向けた様子もない。
中国浄土教の祖とされる曇鸞(476〜542?)は、当代一の医学者、科学者であり道教を極めた道士でもあった陶弘景(456〜536)に不老長生の秘訣「仙経」を学んだ。その後曇鸞は菩提流支三蔵(?〜527)を訪ね「仏教にはこれに勝る健康法がありますか」と問うた。