悪行三昧の結果、餓死者や身売りが続出!庄内藩・酒井家の厄病神がもたらすお家騒動【前編】

Japaaan

悪行三昧の結果、餓死者や身売りが続出!庄内藩・酒井家の厄病神がもたらすお家騒動【前編】

名将の晩節

現在の山形県の、海側の地域は江戸時代は「庄内藩」でした。そこを納めていたのが酒井家で、その初代藩主は酒井忠勝(さかい・ただかつ)という大名です。

酒井忠勝(Wikipediaより)

この人は徳川家光の右腕と評されるほど優秀な人物だったのですが、その足跡を辿るとだいぶ「晩節を汚した」感があります。

徳川家光からの信頼大!酒井忠勝(さかいただかつ)の知られざる逸話をご紹介

何しろ、ボンクラの弟からもたらされるウソを信じて家臣を追放したり、あるいは死に追いやったりしています。彼によって命を失った者は300人にも及ぶと言われ、またその弟というのが、領地で悪政を敷いて民を飢え死にさせたとんでもない人物でした。

死に追いやられた300人中、忠勝によって直接手討ちにされた家臣は130人。その多くは女中などの女性や、身の回りの世話をする低い身分の人たちでした。

今回取り上げるのは、この忠勝の弟である酒井忠重(さかい・ただしげ)という人物です。この弟がいなければ、晩年の忠勝の蛮行ももう少し少なくて済んだかも知れません。

この、厄病神と言っても差し支えない酒井忠重という人物がもたらした悪質なお家騒動について、前後編に分けて解説します。

酒井兄弟、出羽の地へ降り立つ

酒井家と、酒井忠重の関係について説明するには、そもそも酒井家が山形へやってきたところから説明する必要があります。

酒井家はもともと信州の松代にいましたが、それが山形へやってきたのは1622(元和8)年のことでした。

江戸幕府は、山形城主である最上義俊の領地を「藩内不統一」を理由に没収・分割しています。

そしてこのうち「庄内13万8千石」を兄の酒井忠勝に、そして「白岩8千石」を酒井忠重に統治させたのでした。ちなみにこの時同じく「左沢1万2千石」を与えられた酒井直次も、忠勝の弟です。兄弟であちこちを統治したことになります。

ところが、忠重は白岩の地で悪政を敷きます。百姓に対して米の押し売りや高利貸を行い、百姓の妻を城に召し出させては美醜で選んで留め置き、人馬を不当に徴発したり……。まさに悪行三昧です。

この暴政の結果、白岩では餓死者身売りに出された者が1,454人にも及びました。

現在の白岩地区の近くには、有名な「慈恩寺」がある

これに耐えかねた領民は、寛永10(1633)年に、「白岩状」「白岩目安」と呼ばれる非法23か条を記した訴状をもって江戸奉行所に直訴します。

しかし、兄の忠勝が幕府にかけ合ったと見られ、一揆を起こした農民側は敗訴し磔刑に処されました。ひどい話です。

ただ、5年後の1638(寛永15)年には忠重は領地を没収され、兄の忠勝がいる庄内藩に預けられました。

なんで5年も経ってから? という疑問が湧きますが、この前年には島原の乱が起きています。領民からの反発を招いた領主には、それなりの措置を取ることになったのでしょう。

ちなみに、忠重が去ったあとの白岩は幕府の直轄領となり、代官・小林十郎左衛門が後釜に据えられています。しかし悪政は相変わらずで、領民はその後も苦しめられました。

恩に仇なす弟

さて、庄内藩で客分として生活し始めた忠重ですが、この時点で彼は兄の忠勝から二度に渡って助けられていることになります。一度目は農民の一揆の時に幕府に口利きをしてもらったこと、二度目はいわば身元引受人として忠重を引き受けてもらったことです。

ただこれは、見方を変えれば、忠勝がいかに弟に対して甘かったかということでもあります。

この身びいきが災厄をもたらします。居候の身にも関わらず、忠重は庄内藩の藩政にたびたび介入するようになりました。

庄内藩といえば有名な「山居倉庫」(現・酒田市)

もともと忠重は酒井家の家督を乗っ取る計画を立てていたと思われます。もともと彼には、庄内藩の寄合旗本だった弟の酒井了次(のりつぐ)を陥れて死に追いやった経歴があります。

まず忠重は、乗っ取りに向けて自分の息子を利用します。兄・忠勝の娘に、長男の忠広をめあわせて、将来的な庄内藩のお世継ぎにしようとしたのです。忠勝には当時既に20歳になっていた忠当(ただまさ)という息子がいたにも関わらず、です。

さてここで、酒井家の家臣の一人が忠重の企みに気付きました。その名は高力喜兵衛(こうりき・きへえ)といい、彼は忠勝の妹の子、つまり忠当の従兄弟にあたる人物でした。

彼はいわば「忠当擁護派」となり、忠重と対立する形になりました。

高力喜兵衛は、酒井忠重の力を削ぐために、忠当の義理の父親にあたる松平信綱(まつだいら・のぶつな)に書状を送り、忠重・忠勝の引き離しを計画しました。

しかしそれに気付いた忠重も策を練ります。彼は、高力喜兵衛の味方だった毛利長兵衛という人物を脅迫し、自分に従わせます。

そして毛利を使って、「高力喜兵衛は松平信綱と一緒になって、忠勝を隠居させようとしている」と嘘の告げ口をさせたのでした。

もちろんこれは真っ赤な嘘なのですが、この讒言に激怒した忠勝は、1646(正保3)年に、高力喜兵衛とその一族を酒井家から追放してしまったのです。そして、高力家一門やその関係者は追放・切腹に処されました。

後編では忠勝の死と、なおも宗家に迷惑をかけ続ける忠重の所業とその最期を説明します。

参考資料

酒井忠重 山形新聞 やまがたコミュニティ新聞 ONLINE 攻城団ブログ

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「悪行三昧の結果、餓死者や身売りが続出!庄内藩・酒井家の厄病神がもたらすお家騒動【前編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、酒井忠重酒井忠勝庄内藩江戸時代政治カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る