源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その1】

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源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その1】

本記事では、4回にわたり平泉に栄華を誇った奥州藤原氏の祖・藤原経清(つねきよ)の壮絶な生涯についてご紹介します。

平安時代後期にさしかかった1051(永承6)年、平安京から遠く離れた陸奥国で「前九年の役」が起こりました。平安初期、一度は朝廷に服従したかにみえた東北ですが、蝦夷の長(俘囚の長)である安倍頼良(頼時)が、陸奥国国司に就任した源頼朝の祖先・源頼義に立ち向かったのです。

藤原経清は陸奥国府の官人でありながら、安倍氏側について「前九年の役」を戦い抜きました。その結果、経清は悲惨極まる死を遂げることとなります。しかし、経清が安倍氏についたことで、その後の東北の歴史、しいては日本の歴史に大きな影響を与えることとなったのです。

【その1】では、「前九年の役」前夜にあたる平安時代後期の東北情勢についてお話ししましょう。

平安時代後期における東北地方の情勢

安倍頼時が本拠を構えた衣川の柵(並木屋敷)。〈写真:T.TAKANO〉

奥六郡を越える支配地域を領した安倍頼良(頼時)

平安時代前期、桓武天皇の命による蝦夷(えみし)征伐が実施されました。当初は戦いを有利に進めた蝦夷でしたが、坂上田村麻呂が征夷大将軍として征伐軍を率いると、徐々に追い詰められていきます。そして、リーダーである阿弖流為(あてるい)と母禮(もれ)が投降の末、処刑されると組織的な抵抗は終息を迎えることになります。

朝廷は蝦夷を統治するために俘囚の長として安倍氏(陸奥国)俘囚の主として清原氏(出羽国)を命じ、その上に中央から派遣される国司である陸奥守と出羽守を置きました。

安倍氏と清原氏はそれぞれ陸奥と出羽に勢力を張った豪族で、ともに中央の貴族出身と称していました。朝廷は清原氏の出自は中央貴族の清原氏と認め、真人の姓を与えていますが、安倍氏に対してはそれを許しませんでした。

ただ、史実としては安倍氏は朝廷に従い、貢租を収めていました。しかし、最も勢力を拡大した安倍頼良(頼時)の代になると、貢租の上納が停滞気味になります。

なぜ、安倍氏が貢租を渋ったかは定かではありません。だが、頼良の父忠良の頃から権陸奥守に任ぜられており、この頃から安倍氏の勢力が増大し、その支配地域が奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手郡の総称)に留まらない、半ば独立国のような様相を呈していたことは理由の一つとして考えられます。

また、朝廷の威を借りて過剰な貢租を要求するなど、様々な横暴を行う国司に安倍氏が抵抗したとも考えられています。

陸奥国の国府と鎮守府が置かれた多賀城。〈写真:T.TAKANO〉

安倍氏が鬼切部の戦いで国司軍を破る

鬼切部の戦いは、この鬼切部城周辺で行われた。(写真:T.TAKANO)

理由はともあれ、こうした安倍頼良の動きは、朝廷としては見逃すことはできませんでした。貢租を怠った懲罰として、1051(永承6)年に陸奥守藤原登任(のりとう)が、秋田掾介平重成の援軍を得て、1000名の兵で頼良を攻める「鬼切部の戦い」が起きます。

安倍頼良は本隊を率いて国府軍と激突します。そこに頼良の子貞任・宗任が率いた別動隊が山沿いから奇襲をかけ、朝廷軍を一蹴しました。敗れた登任は多賀城に逃げ帰りますが、陸奥守を解任されてしまいました。これに危機感を覚えた朝廷は、武勇の誉れ高い河内源氏の御曹司・源頼義を陸奥守に任じたのです。

頼義は、「鎌倉殿」こと源頼朝の祖先にあたります。その系図を簡単に記してみましょう。

①源経基(清和天皇孫)―②満仲―③頼信(河内源氏祖)―④頼義―⑤義家―⑥義親―⑦為義―⑧義朝―⑨頼朝(鎌倉幕府初代将軍)

頼義は、都から多数の郎党を率いて多賀城に着任しました。彼らは、平忠常の乱などを戦ってきた歴戦の武士たちです。

しかし、頼義が戦力として最も期待していたのは、在庁官人で陸奥国亘理郡を領する藤原経清と陸奥国伊具郡郡司の平永衛(ながひら)でした。

二人は、藤原氏・平氏という中央貴族の血筋でありながら、陸奥国で勢力を拡大していました。そして、ともに安倍頼良の娘を妻にして安倍氏と婚姻関係を結んでいたのです。

経清と永衛が頼義に従属すれば、安倍氏は内部分裂という危機をむかえることになります。しかし、「鬼切部の戦い」の際、二人は国司軍から離脱し、頼良の味方をしていたのです。

安倍頼良が恭順、陸奥に平穏が戻る

若年の頃から弓の名人として名を馳せた源頼義。摂関家に武者として使え、相模守・陸奥守などを歴任した。(写真:Wikipedia)

源頼義が陸奥に着任すると、安倍頼良は突然、敵対行動を中止します。頼良は「よりよし」の名が国司と同じでは畏れ多いと「頼時」に改めるなど、平身低頭で恭順の意を表しました。

朝廷は、国母・上東門院(藤原彰子)の病気平癒による恩赦などで安倍頼時を許しました。この時、藤原経清と平永衛も許されて、在庁官人に復帰したと考えられています。

しかし、なぜやすやすと朝廷が三人を許したのでしょうか。当時、国司は受領と呼ばれ、下級貴族にとってはとても魅力的な役職でした。豊かな国に赴任すれば、その期間中に様々な手段で富を蓄えることができたのです。

国司の大きな役割に貢租の取り立てがあります。国司の中には、必要以上に貢租を取り立て、それを横領していた者もいました。そうしたことから、前国司の藤原登任側にも落ち度があったのを朝廷は認識していたのかもしれません。

安倍氏に対して余り厳しい処断を下すと、火に油を注ぐ状況になりかねないという配慮が働いたと考えるのが妥当なのではないでしょうか。

1053(天喜元)年、源頼義は陸奥守兼鎮守府将軍に任じられました。そして、1056(天喜4)年にその任期が終了し、ついに京都に戻る時が来ました。1051(永承6)年の陸奥守就任以来、何事もなく時は過ぎていったのです。

【その1】はここまで。【その2】では、「前九年の役」再燃のきっかけとなった「阿久利川事件」藤原経清が源頼義から離反した理由についてお話ししましょう。

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