藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その2】

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藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その2】

奥州藤原氏の家臣にして義経の郎党

義経が出奔した鞍馬寺(出典:ウィキペディア)

前回の記事【その1】はこちらから

藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その1】

金売吉次のモデルは、堀弥太郎景光という人物だと考えられています。堀景光は源義経の郎党を務めた人物です。出自や経歴こそ不明ですが、早い時期から行動を共にしていました。

『平治物語』では、堀景光を「金商人」と紹介しています。このことから、堀景光が金売吉次のモデルだと考えられます。堀景光は、金商人であると同時に奥州藤原氏の家臣(政商)であったのではないでしょうか。

京では奥州藤原氏を代表する立場として活動し、中央の情報収集を行なっていたと考えれば自然です。承安4(1174)年、源義経は鞍馬寺を出奔。おそらくこの頃には、景光は義経と行動を共にしていたと考えられます。

奥州藤原氏と義経を結んだのは、平家に対抗するためだった?

平清盛(出典:ウィキペディア)

当時の中央政界では、平清盛率いる平家一門が権勢を極めていました。清盛は後白河法皇の院政のもとで太政大臣を補任。一門の多くが朝廷の要職に起用されています。

当時の日本国内には、平家に対抗できる勢力は奥州藤原氏以外は不在となっていました。既に平家は朝廷を通じて、奥州藤原氏当主・藤原秀衡を従五位下鎮守府将軍に叙任しています。

秀衡への叙任は、いわゆる官打ち(位打ち)でした。位打ちとは、対象者に相応しくない官位を与えるやり方です。叙任された人間は、分不相応な官位によって負担が増加。不幸な目に遭って自滅するという、敵対勢力に対する政治的措置でした。

日宋貿易において、金は重要な輸出品です。平家は既に金を生産する奥州に狙いを定めており、奥州藤原氏の滅亡を企図していました。

京にいる堀景光は、当然ながら平家の政治的意向に気づいています。最悪の場合は、奥州藤原氏が平家と戦うことも視野に入れていたと考えるのが妥当でしょう。

平家に対抗する上で重要になるのが源氏の存在でした。平治の乱で敗れたとはいえ、諸国には源氏の係累や旧臣たちが点在しています。源氏の協力があれば、奥州藤原氏も平家と戦える状況でした。

既に源氏の棟梁・源義朝は敗死。嫡男である頼朝は伊豆国に流罪となっていました。手近な所で景光が面識を持ったのが源義経だったと考えられます。

景光は京で義経と近づくと、奥州へ行くことを提案(したと考えられます)。当然、奥州藤原氏の当主・秀衡も同様に考えていました。

奥州藤原氏と義経との出会い

長者ヶ原廃寺跡(出典:ウィキペディア)

当時の東北地方は、二つの令制国に分けられていました。太平洋側の陸奥国(現代の福島県・宮城県・岩手県・青森県の大部分)と日本海側の出羽国(山形県と秋田県に相当)です。

「奥州」とは陸奥国あるいは出羽国をも含んだ二カ国を総称する言葉でした。承安4(1170)年ごろ、堀景光は源義経を伴って奥州平泉に下向。秀衡にも面会しています。景光にとっては帰国でもありました。

堀景光は奥州平泉でどこに拠点を持っていたのでしょうか?

伝承によれば、金売吉次の屋敷跡とされる場所が平泉の近くにありました。現在の岩手県奥州市衣川にある平安時代の寺院跡「長者ヶ原廃寺跡」です。

現在では奥州藤原氏の祖先である安倍氏が建立した寺院跡地だったと確認されました。しかし堀景光=金売吉次の足跡は、確かに平泉でも確認されていたことは確かなようです。
源義経が秀衡のもとで養育されるようになると、景光もときには近侍し、あるいは京で情報収集にあたったものと推察されます。

義経、奥州藤原氏の元を巣立つ

源平合戦図屏風(出典:ウィキペディア)

やがて時代は反平家に向けて動き始めることとなります。

治承3(1179)年、後白河法皇は平清盛によって幽閉。院近臣の多くが朝廷の要職から解任され、平家一門が起用されていきます。世にいう治承三年の政変です。

一連の政変によって院政は停止。平家の知行国は日本の半分を超える30余ヶ国にのぼりました。当然、平家に対する不満は高まりを見せます。

政変の翌治承4(1180)年、以仁王(後白河法皇の第三皇子)が摂津源氏・源頼政らと共に挙兵。全国の源氏や寺社に平家打倒の令旨(命令文書)を発しました。

同年には伊豆国で源頼朝が挙兵。やがて甲斐の武田信議信濃の木曾義仲らも兵を挙げます。

奥州にいた源義経らも源平合戦に加わる道を選びました。藤原秀衡は遺留しますが、義経は館を出て坂東の頼朝の陣に進発。奥州藤原氏家臣の佐藤継信・忠信兄弟も義経に従っていることから、堀景光も帯同した可能性があります。

頼朝は伊豆の石橋山で平家方の大庭景親らに負けるものの、房総半島に逃げて勢力を挽回します。

鎌倉に入った頼朝は鎌倉殿(鎌倉の主)として君臨。坂東を平定し、武士たちを糾合していきます。同年10月には、義経は黄瀬川で頼朝と対面。堀景光=金売吉次が少しずつ歴史の表舞台に姿を表していきます。

次回【その3】に続きます。

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