鳥羽一郎インタビュー、歌手人生のはじまりを明かす「運とタイミングに恵まれていた」師匠との胸が熱くなる出会いとは?

日刊大衆

鳥羽一郎(撮影・弦巻勝)
鳥羽一郎(撮影・弦巻勝)

 今年、デビュー40周年を迎えましたが、俺の歌手人生は、運とタイミングに恵まれていたと思っています。

 まず、恩師である船村徹先生との出会いです。歌が好きでたまらないけど、田舎者の自分が歌手になんてなれるわけがない。そう思い込んでいた俺が、何かに突き動かされるように、船村先生のところへ押しかけたのは27歳のとき。

 先に歌手になるべく上京していた弟(山川豊)から「このホテルに泊まっているらしい」と教えられて、食事をしていらっしゃる寿司屋へ行きました。店ののれんをめくると、憧れの船村先生が見えた。正直ビビッてしまったんですが(笑)、勇気を振り絞って「三重県の鳥羽市というところから来ました木村と申します。弟子にしてください!」と言った……と思うんです。頭に血が上ってて、全然覚えてない(笑)。

 そして翌日、早朝から番組収録を見学させてもらって、その後で「君は車の運転はできるかね?」と尋ねられました。できると答えると「そうか。今から千葉のカントリークラブへゴルフに行くから、君も来なさい」と、一緒に千葉の館山に行くことになり、そのまま住み込みの内弟子にしていただいたんです。

 当時、先生は「もう弟子は取らない」と口にしていたようで、どうして俺を弟子にしてくださったのかは、今も謎のまま。ただ、あとになって「こいつの目はギラギラと、オイルを塗ったみたいだった」とおっしゃっていたので、そのくらい必死だったんでしょうね、あのときの俺は。

 ただ、内弟子にはなっても、先生は歌のレッスンどころか、俺に歌わせることもない。では何をしていたかというと、人間修行です。先生の身の回りの世話をしながら日本中を回ることは、あらゆる場面で勉強になりました。何物にも代えがたい、貴重な時間だったと思っています。

■この曲がとてもしっくりきて、どうしてもこれが歌いたいと思った

 そうして3年ほどたった頃、先生から突然、「この5曲がデビュー曲の候補だ」と言われました。

 先生のイチ押しは『南十字星』というマグロ船の歌、レコード会社の社長は『流氷・オホーツク』を推していました。さてどうしたものかと悩んでいるさなか、別件で先生が作曲した『兄弟船』という曲を歌う機会があったんです。

 俺はこの曲がとてもしっくりきて、どうしてもこれが歌いたいと思ったんですね。でも、候補にない曲を歌わせてほしいとは、先生にはとても言えない。だから、レコード会社の若手社員たちにお願いして、周囲から後押ししてもらいました。その結果、最終的に『兄弟船』でデビューさせてもらえることになったんです。

 もし、『南十字星』か『流氷・オホーツク』でデビューしていたらどうなっていたのか。それは誰にも分からないけれど、あのタイミングで『兄弟船』に出会えたのは、“運”だと思っています。

 5年前に船村先生はこの世を去りましたが、先生が教えてくださったことが、今になってどんどん身にしみてきます。一番は「歌手は物語をお客さまに伝えなくてはならない」。歌詞を大切に、ひと言ひと言が心に届くように……ということです。

 今年リリースした『一本道の唄』の歌詞は、武田鉄矢さんにお願いしました。これが実にいい歌詞でねぇ。まるで鳥羽一郎の『マイウェイ』。歌っていると、いつも胸が詰まります。

 でも、だからといって、歌っている俺が感情をむき出しにしちゃいけない。「さみしい歌は、笑いながら歌え」と、船村先生がよくおっしゃっていました。言われていた頃はあまり分かっていなかったけれども、今は先生のおっしゃりたかったことが、やっと分かるようになってきました。

 ただただ、船村先生が紡ぐ歌が好きな船乗りだった俺が、40年も歌い続けてこられたのは、夢のようなこと。先生に出会えた奇跡を大事に、これからも皆さんに“歌”という物語を届けていきたいと思っています。

鳥羽一郎
とば・いちろう
1952年生まれ。三重県鳥羽市出身。17歳から遠洋漁業の漁労員として働いた後、板前修業を経て、27歳のときに船村徹氏に弟子入り。1982年に『兄弟船』でデビュー。以降、数々のヒット曲を世に送り出す。また、チャリティ活動にも熱心で、紺綬褒章を何度も受賞している。

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