武田信玄、命を懸けた野田城攻め!「甲斐の虎」の最期の戦いの理由とは?

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武田信玄、命を懸けた野田城攻め!「甲斐の虎」の最期の戦いの理由とは?

命を懸けた「野田城攻め」の理由

「甲斐の虎」武田信玄(たけだしんげん)は、三方ヶ原の戦いで大勝利を収めた後、野田城を攻めている中で最期を迎えました。

甲府駅南口・武田信玄像

ところで、あまり言及されませんが、なぜ信玄はこの小規模な野田城を攻めたのでしょう?

そこには、未来を見越していた信玄による「終活」という意味合いがありました。今回はそんな彼の最期の意図を探っていきたいと思います。

まずは、くだんの「野田城」についてですが、これは三河国にあった城で、別名を根古屋城ともいいました。

現在の愛知県新城市豊島に跡地がありますが、この野田城というのは城兵500人弱の小城でした。信玄はこれを3万もの軍勢で包囲し、一ケ月の時間をかけて降伏させました。

彼はなぜそこまでして、この城を落とすことに文字通り「命を懸けた」のでしょうか。

実はその理由は、信玄の領地である甲斐国の環境にありました。

もともと甲斐国は、平地が極端に少なく、甲府盆地以外は山岳地域なので農作物を作るのには向かない土地でした。

また、河川の氾濫など自然災害が相次いで起きる厳しい環境で、人々の住みにくい土地だったのです。

そんな痩せた領地の「貧乏大名」だった武田信玄が、なぜ他国の大名から「甲斐の虎」と恐れられるほどの戦国武将に成らしめたかというと、実はその強さ以外にも、豊富な資金という武器があったからです。

甲斐国の領地内には、豊富な鉱山資源がありました。また彼はこの他にも、甲州市にある黒川金山、身延町にある中山金山など多くの金山を所有していました。

観音岳から見る冬の甲府盆地

しかし、鉱山資源に頼り切っている甲斐国の現状が、信玄にとっては逆に悩みの種でもありました。

農作物や海産物と違い、鉱山資源は有限なので、いつか採掘できなくなる日が必ず訪れます。甲斐国が今後も繁栄し続けるためには、新たなに鉱山を手に入れる必要がありました。

偉大な統治者でもあった武田信玄

持病を持ち、近いうちに死期を迎えると悟っていた信玄は、自分の命があるうちに国の財政基盤を盤石なものにしておかなければならないと考えていたのです。

もともと信玄は、肖像画ではいかにも頑強で壮健そうな風貌をしていますが、若い頃から持病を患っており何度も吐血したことがあるという記録があります。

武田四天王の一人「高坂昌信(高坂禅正)」の資料『甲陽軍艦』によると、信玄は膈(かく)の病だったとされており、長らく彼は胃ガンまたは食道ガンを患っていたのだろうと推測されています。最近の研究では、「日本住血吸虫症」という風土病だったとも言われています。

いずれにせよ、信玄は若い頃からずっとそんな体調だったので、常に自分の亡き後について意識していたのでしょう。

彼は、三河国の鉱山にまだまだ金脈があると予想して、領土の拡大を目指したのです。野田城は、武田家が新たな鉱山資源を確保するための重要な戦略拠点だったのでした。

野田城跡(Wikipediaより)

実際、信玄が亡くなった数年後には、三河国の段戸山(現在の鷹ノ巣山)で金鉱が新たに発見されています。

こうして信玄は、1571(元亀2)年に三河に侵攻して手始めに吉田城を攻略しました。そして設楽郡一帯を支配下に置くと津具金山を手に入れ、そして野田城を降伏させます。

これにかかった費用は現代の金額で100億円以上。この戦が、武田家にとって大規模な先行投資だったことが分かります。「自分の命があるうちに、甲斐国の将来のために新たな鉱山を確保しておきたい」という強い思いが読み取れますね。

彼は野田城の攻略後、城の補修工事を行います。そして帰郷の途中、信濃駒場でついに帰らぬ人となったのでした。享年53歳。

彼が、単に「強い武将」だっただけではなく、きちんと未来を見越してものを考える「統治者」でもあったことが分かりますね。

初夏の「信玄堤」と釜無川

ちなみに、甲斐国は河川の氾濫が頻発していたと先述しましたが、今も山梨県に残る「信玄堤」として有名な治水システムは、困っている領民のためにと信玄の命で築かれたものです。

参考資料

WEDGE Infinity(ウェッジ) 歴史専門サイト「レキシル」 ひすとりびあ 農業と環境 No.158 2013.6

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