徳川家康を支えた四天王のひとり、赤鬼・井伊直政の独自戦法「赤備え」や人柄について紹介 (3/3ページ)
井伊の赤鬼
戦でも自ら初陣を担うなど、荒武者として知られていた井伊直政には「井伊の赤鬼」と言う異名がありました。
直政は「赤備え」と呼ばれる戦法を用いており、部隊の軍装を朱色に統一していたのです。朱一色に統一された部隊には異様な威圧感が生まれ、味方の士気を高め、敵軍の戦意を削ぐ効果があったのだとか。
さらに直政の荒々しい戦い方も相まって、「井伊の赤鬼」として恐れられていたのです。
ライバル「本多忠勝」井伊直政と本多忠勝はライバル関係にあったと言われています。
同じ徳川四天王だった2人ですが、戦場の装備に対する考え方に違いがありました。軽装で身軽さに重きをおいた本多忠勝に対し、井伊直政は重装備で守備力を重視していたそうです。
また、生涯一度も傷を負わなかったとされる本多忠勝ですが、重装備の井伊直政は傷が絶えなかったのだとか。
関ヶ原の戦いライバル関係にあった直政と忠勝は、関ヶ原の戦いで共闘することになります。
酒井忠次は関ヶ原の戦い以前に他界しており、榊原康政は徳川秀忠率いる東山道軍に付き従っていたため、信州上田で真田昌幸に行く手を阻まれて合戦に参戦できなかったのです。
そんな関ヶ原の戦いでかすり傷ひとつ負わなかった本多忠勝。しかし、井伊直政は敵中突破した薩摩の島津義弘隊を追撃した際に重傷を負い、これがもとで2年後に亡くなってしまいます。
荒武者として知られていた直政ですが、自身の戦い方ゆえに命を落としてしまい、主君であった徳川家康の晴れ姿を見ることができませんでした。
ただ、関ヶ原の戦いにおいて大きな活躍したことで「3傑」の1人として数えられています。
現在では様々なアニメやゲームでリメイクされて登場する人気人物です。
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