【鎌倉殿の13人】独りじゃないよ!流人時代から頼朝に仕え、気にかけた者たち【後編】

Japaaan

【鎌倉殿の13人】独りじゃないよ!流人時代から頼朝に仕え、気にかけた者たち【後編】

前回のあらすじ

頼朝「わしは一人ということじゃ。流人の時も、今も」

※NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第9回「決戦前夜」より

富士川の合戦(治承4・1180年10月20日)に勝利するも、御家人たちは誰も追撃(=打倒平家)に賛同してくれない……そう不貞腐れる源頼朝(演:大泉洋)。

どうせお前たちは坂東武士。父を平家に討たれた哀しみなど解ってはくれない他人だし、お前たちも自分をよそ者と思っているのだろう……。

だがちょっと待って欲しい。あなたが20年前に伊豆へ流されてからこの方、献身的に仕えてきた者たちがいるではありませんか。

頼朝「あぁ……あれ(藤九郎)がおったか」

大河ドラマの都合上、割愛されてはいるものの、頼朝は決して独りなんかじゃありませんでした。

前回は、頼朝の流人時代から仕えた中原光家(なかはら みついえ。通称:小中太)と藤原邦通(ふじわらの くにみち。通称:藤判官代、大和判官代など)を紹介。

【鎌倉殿の13人】独りじゃないよ!流人時代から頼朝に仕え、気にかけた者たち【前編】

まだいるので、おつき合い願います。

小野田盛長(おのだ もりなが。保延元・1135年生~正治2・1200年没)

そして藤九郎。彼の出自については諸説あってハッキリしないのですが、ここでは三河国宝飯郡郡小野田郷(現:愛知県豊橋市)を領していた小野田兼広(かねひろ。兼盛か)の子であるとの説をとります。

『集古十種』より、安達盛長法体像(出家後)

劇中では安達(あだち)盛長となっていますが、その苗字は文治5年(1189年)奥州征伐の後に陸奥国安達郡安達荘(現:福島県二本松市)を拝領した以降に名乗りました。

三河の武士がなぜ伊豆の流人に仕えたのか……そのキッカケは、かの比企尼(演:草笛光子)の娘・丹後内侍(たんごのないし。実名不詳)を娶ったから。

尼「そなたたち、すぐに佐殿へお仕えしなさい!」

盛長夫妻「「はい!」」

伊豆に流された頼朝が心配で心配でしょうがない比企尼は、夫・比企掃部允(ひき かもんのじょう)の尻を叩いて請所の武蔵国比企郡(現:埼玉県比企郡)に引っ越し。そこから20年にわたって無償の愛を仕送りし続けるほどの頼朝ラブでした。

請所(うけしょ)とは、朝廷に対して「収穫高にかかわらず年貢の額を保証(必ず貢納)しますので、この土地の支配権を下さい」と請け合った土地のこと。

自由な裁量が認められたため、やりくり次第では利潤を上げられる反面、凶作の時(たとえ収穫ゼロ)でも必ず定額の年貢を納めなければなりません。

そんなハイリスク・ハイリターンな所領経営を乗り越えて頼朝に莫大な仕送りを続けたのですから、比企尼(と掃部允)はよほどのやり手だったようです。

しかし、流人の家来って……なかなか微妙な立場ですよね。しかも(所領の無い)頼朝からもらう給料、その原資はほとんど姑からの仕送り……切なくなってしまいますね。

頼朝も「あれがおったか」じゃありませんよ。もう少し丁寧に扱いなさいったら。

相模から伊豆まで遠距離通勤の佐々木四兄弟

以上3名が住み込みで仕えていたほか、相模国高座郡渋谷荘(現:神奈川県大和市)からは、かの佐々木四兄弟が通いで仕えていました。さすがに毎日ではないでしょうが、伊豆と相模を往復するとは結構な遠距離通勤ですね。

【佐々木四兄弟の顔ぶれ】
長男:佐々木太郎定綱(演:木全隆浩)
次男:佐々木次郎経高(演:江澤大樹)
三男:佐々木三郎盛綱(演:増田和也)
四男:佐々木四郎高綱(演:見寺剛)

後に大活躍する佐々木兄弟。その四男・高綱。歌川国芳筆

※五男の佐々木五郎義清(未登場)らは、まだ若いため父・佐々木秀義(演:康すおん)と一緒にお留守番だったと考えられます。

佐々木一家は平治の乱に敗れて渋谷荘まで逃げ込み、そこを治めていた平家方の渋谷重国(しぶや しげくに)と意気投合。ちょっと泊まってけとのお言葉に甘えて、ついつい20年ばかり居候。

しかもそこから平家に仇なした謀叛人(頼朝)の元へいそいそと通っている……坂東武士たちの間では、正直なところ「源氏と平家の戦い」なんて心底どうでもよかったのかも知れませんね。

ところで仕えているとは言っても、別に所領を経営する訳でもない頼朝のもとで何をするのでしょうか。宿直(とのゐ。夜警)や身の回りの世話をしたり、ナンパや気晴らしにつき合ったりと言ったところかと思われます。

他にも友達けっこうたくさん!

ちなみに軍記文学『曽我物語』などでは、頼朝を慰めるためにみんなで集まって狩りだの相撲だのと言ったレクリエーションをちょくちょく開催。例えばこんな……。

……その頃、兵衛佐殿、伊東の館にましましけるに、相模の国の住人大庭の平太景信と言ふ者あり。一門寄り合ひ、酒盛りしけるが、申しけるは、「我らは、昔は、源氏の郎等なりしかども、今は、平家の御恩を以つて、妻子を育むと雖も、古の功、忘るべきにあらず。いざや、佐殿の、いつしか流人として、徒然にましますらん。一夜、宿直申して、慰め奉り、後日の奉公に申さん」「もつともしかるべし」とて、一門五十余人、出で立ちたり。人別筒一当てぞ持ちにける。これを聞き、三浦、鎌倉、土肥次郎、岡崎、本間、渋谷、糟屋、松田、土屋、曽我の人々、思ひ思ひに出で立ちにけり。

※『曽我物語』佐殿、伊東の館にまします事

【意訳】そのころ頼朝は伊東祐親(演:浅野和之)の館に住んでいました。
相模国の住人・大庭平太景信(おおばの へいだかげのぶ。大庭景義)は一族で酒盛りをしていた時に、こう提案します。
「我らはかつて源氏(源義朝)に仕えていたが、今は平家の世話になって妻子を養っている。しかし源氏への旧恩を忘れるべきではない。今、佐殿は流人の身でお寂しかろう。ここは一つみんなで宿直という名目で遊びに行って差し上げようではないか」
すると一同「それはいい考えだ」と賛成。さっそく一人一本の酒筒を持って一族50数名が伊東の地へ向かったのでした。
それを聞いて三浦義澄(演:佐藤B作)ら、大庭景親ら(演:國村隼。鎌倉一族)、土肥次郎実平(演:阿南健治)、岡崎義実(演:たかお鷹)、本間某(不詳。海老名党か)、渋谷重国ら、糟屋盛久(かすや もりひさ)ら、松田(松田郷を領する波多野義常か)、土屋宗遠(つちや むねとお。実平の弟)ら、曽我祐信(そが すけのぶ)らも駆けつけます。

「「「すーけーどーの!あーそびーましょ!」」」

みんなで「頼朝を囲む会」開催中(イメージ)

こんなに大人数で押しかけられて、きっと頼朝は嬉しい悲鳴、主人の祐親は「すわ、敵襲か」と驚いたことでしょう。

『曽我物語』には祐親が(みんなで狩りに行こうと言い出した)頼朝たちの接待に追われるシーン(奥野の狩りの事)もありますが、そっちも又の機会に紹介できればと思います。

終わりに

以上、頼朝を流人時代から支えて来た仲間たち、気にかけてくれた坂東武士たちを紹介して来ました。これだけいてもまだ不足でしょうか。

確かに彼らは肉親ではありませんが、それは別に頼朝だけではありません(例えば藤原邦通については親兄弟はもちろん、きちんと家庭を持ったかさえも不明です)。

現代に比べてはるかに人の死や別離が身近だった当時、家族がずっと一緒である方がよほど珍しいものでした。

どうせ人間、生まれる時も死ぬ時も一人です。たとえ肉親の情は薄くとも、仲間と苦楽を共にした絆こそ、かけがえのない財産ではないでしょうか。

※参考文献:

細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人と本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月 市古貞次ら校注『曽我物語』岩波書店、1966年1月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「【鎌倉殿の13人】独りじゃないよ!流人時代から頼朝に仕え、気にかけた者たち【後編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、安達盛長曽我物語鎌倉殿の13人源平合戦源頼朝カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る