出島への出入りを許された絵師・川原慶賀。幕府から二度の懲罰を受けた波乱に満ちた生涯

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出島への出入りを許された絵師・川原慶賀。幕府から二度の懲罰を受けた波乱に満ちた生涯

外交政策の一環として、江戸時代の長崎に造られた扇形の人工島・出島。1641年にはオランダ商館が置かれ、鎖国下の日本で唯一開かれていた海外との窓口としてあまりにも有名だ。

商館であり商館員とその家族の居住区でもあった出島には、多くのオランダ人が生活していたが、一部の日本人も出入りが許可されていた。

島の責任者(乙名)、阿蘭陀通詞(通訳)、門番、料理人など、およそ100人以上が働いていたほか、丸山の遊女も出入りしていた。

その中でも際立った存在が、出島出入り絵師の一人、川原慶賀だ。

出島出入り絵師 川原慶賀

川原慶賀は、1786年頃に現在の長崎市築町に生まれた。

慶賀は号であり、名は登与助(とよすけ)。1853年に来航したロシア艦隊長官 プチャーチンの肖像画には、“Tojoskij(トヨスキー)”というサインも残している。

25歳頃に長崎派の絵師として名高い石崎融思に弟子入り。才能を開花させると画力が認められ、長崎奉行所から絵師として出島のオランダ商館へ出入りすることが許可された。

『唐蘭館図・玉突き図』川原慶賀(Wikipedia)

”出島出入り絵師”という肩書きを得た慶賀は、当時の日本の浮世絵と西洋画を融合させた独特なタッチで、商館長の肖像画や商館員たちの出島での暮らしを描いた。
開国後に外国人や海外の風俗を画題とした作品は多く描かれ人気を博すが、慶賀には画力はもちろん、間近で外国人の生活を観察できた立場があり、この画題において他の追随を許さないように感じる。

シーボルトの専属絵師としての活躍

川原慶賀によるイラの写生(Wikipedia)

1823年にオランダ商館付の医師として来日したシーボルトは、日本を紹介する自身の著書の挿絵を慶賀に依頼する。
慶賀はオランダ人画家デ・フィレーネフェから西洋画を学びながら、日本の動植物や風景、風俗、人物を描き続けたが、1829年に起きたシーボルト事件でシーボルトが日本追放となる。彼と深く関わっていた慶賀も長崎奉行所で取り調べの上に投獄された。

シーボルトは日本を離れる前に、自身の助手へ下記のような書面を宛てている。

助手に日本の魚類のすべてを、既知と未知との、あるいは珍奇なると一般的なるとを問わず、すべて写生することを提案する。
日本人画家、登与助の確かな手腕と、日本の鮮やかな絵具は、自然や実物の美しさに負けないであろう。

自分が日本を追放されても、慶賀に写生を依頼することを提案しており、シーボルトからの評価の高さを窺がわせる。

また、追放後のシーボルトの元に送られた煙草箱には、日本に残した妻子の肖像画が螺鈿細工で施されており、慶賀はその下絵を描いている。シーボルトと慶賀の親交の深さを感じる一品だ。

シーボルトはオランダに帰国後に全7巻にも及ぶ大著『日本』を刊行。19世紀初頭の日本をビジュアルで詳細に伝えた図版として、高く評価されたその著書の挿絵の多くは慶賀によるものだ。

「紫陽花」の学名に愛する日本人女性の名を付けたシーボルトの愛情深いエピソード

再びの幕府からのお咎め、その後の慶賀

慶賀と息子川原盧谷による『草木花実写真図譜 2巻』(国会図書館デジタルコレクション)

シーボルト追放後も慶賀は出島出入り絵師として活動を続けたが、再び幕府からお咎めを食らってしまう。
商館員の依頼で描いた長崎港図に、当時長崎の警備に当たっていた佐賀藩と熊本藩の家紋を描き入れてしまったのだ。これが国家機密の漏洩とされ、慶賀は長崎追放の処分を受けることとなる。

その後についてはよく分かっておらず、多くの作品を残しているものの、没年はおろか墓所も分かっていない。

慶賀の作品の多くはオランダに送られたため、今日、日本国内に残る作品は50点ほどである一方、オランダのライデン国立民族博物館には1000点近くが収められている。
なかなか原画にお目にかかれる機会はないが、長崎歴史文化博物館のホームページでデータ化され公開しているので、ぜひご覧いただきたい。

<参考>
長崎歴史文化博物館
旅する長崎学

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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