命がけでイギリスへ!幕末、渡航禁止令に背きロンドンへ密留学した「長州ファイブ」とは? (2/2ページ)

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また、江戸幕府の海外渡航禁止令があったため、開国はしたものの日本人が海外へ渡航することは1866年までできませんでした。しかし、幕府の許可を得ずに英国へ渡ったのが、長州ファイブ。

長州藩は若者に、海外の最新の知識や技術、文化を学んでもらうことが必要だと考えていたからです。長州ファイブの面々は、「生きた器械」になることを約束し、イギリスへ。

長州ファイブとイギリス

長州ファイブが学んだのは、UCLでした。当時、色々な人種の留学生を受け入れたのはUCLだけだったそうです。ここで教鞭をとっていた化学者のアレクサンダー・ウィリアムソンという人物が彼らを迎え入れてくれました。

聴講生として入学した彼らは、いろいろな学問に接し、知識を得ていきます。1864年には、半年の留学を終え、伊藤と井上馨が帰国。これは、列強4か国が長州藩への攻撃を準備しているという情報を得たからでした。

長州は攘夷から開国へ

帰国した2人は、列強と戦うのはあまりに無謀だと藩に伝えますが、結局1864年に下関戦争が勃発。ここで惨敗してしまった長州藩は、これまでの攘夷から開国へと方向転換を見せます。

長州奇兵隊

多方面で活躍した長州ファイブ

長州ファイブの面々は、日本に帰ってきたあと、大きな功績を残しています。井上馨は外務大臣として不平等条約の改正に力を尽くしましたし、遠藤謹助は大坂の造幣寮の建設に携わり、山尾庸三は東京大学工学部の前身となる工学寮を創設し、工学の父と呼ばれています。

伊藤博文は言わずと知れた初代内閣総理大臣であり、井上勝は鉄道の父と呼ばれています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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