聖母マリアはなぜ慕われるのか いつから慕われるようになったか (2/3ページ)
マリアは生涯をつうじて童貞(処女)であったと説かれる。「聖母」に処女性が付与されるのはキリスト教ならではといえるだろう。神話の中で語られる「神」が人の肉をまとい、現実世界で教えを説いたとする特異な奇跡「受肉」。そこでは人の子が生まれるには母体が必要という当たり前の事実と、神の子の生誕には当たり前ではない奇跡が両立しなければならない。処女懐妊は神がこの世の理に従って世に出た証なのである。
■ギリシャ正教の生神女マリア
東方ギリシャ正教では「生神女マリア」といい「マリア」と固有名詞で気安く呼ぶことは少ない。カトリックと同様聖人としては飛び抜けた存在である。東方正教のシンボルといえる「イコン」においてもマリアの肖像の存在感はキリストに劣らない扱いである。しかし東方正教ではマリアに関する神学的な定義はほとんどなく、カトリックが定義した属性は一切認められていない。正教においてもマリアの死に際しては特別な奇瑞があったとされてはいるが、被昇天のような大胆な属性は見受けられない。無原罪に至っては元々正教ではカトリック的な原罪の思想が否定されている。それでもマリアは祝福された特別な人間である。なお、プロテスタントでは聖書に記述されていないこれらの属性は一切認めておらず、マリアに関して正教はカトリックとプロテスタントの中間的な位置にある。
■母への想い
聖書は偶像崇拝を禁じており、カトリックも正教会もマリア「崇敬」であって「崇拝」ではないことを強調する。マリアはあくまで人間であり、神を生んだ聖人として尊敬されている存在ということである。しかしマリア信仰は世界中で根付いている。はっきり言ってイエス以上の人気があると言ってもよいだろう。
聖母は「とりなし」の存在とされる。神に向かって物申すのは畏れ多いが聖母になら甘えられる。聖母は私たちが神に伝えたいことをとりなしてくれる優しい母なのである。キリスト教の原理原則はともかく、迷える庶民にとってマリアはまぎれもない聖母なのだった。
その母への想いは、かくれキリシタンのマリア観音にも見ることできる。キリスト教禁制の世にあって地下に潜ったキリシタンたちは、観音像に見立ててでもマリアの可視化をやめなかった。