日常的に着物を着ていた日本人が何故洋服を着るようになったのか、明治時代の「引札見本帖」に探る【中編】
日本人はもともと長い間“和服”を着て生活してきました。しかし今は“洋服”を着るのが普通であり、着物などの“和服”を着るのは特別な時でしょう。
日本人の着るものが、和服から洋服へと変遷していく黎明期を『引札見本帖』を参考にご紹介します。
前回の前編の記事はこちら
日常的に着物を着ていた日本人が何故洋服を着るようになったのか、明治時代の「引札見本帖」に探る【前編】 鹿鳴館時代の収束による和服の復活“鹿鳴館時代”と呼ばれた1883年(明治16年)より始まった鹿鳴館を中心にした外交政策は、“鹿鳴館外交”と呼ばれました。
1887(明治20年)年頃に4年間ほどで鹿鳴館時代も収束を迎えると、“洋装化”の熱も冷め男女ともに江戸時代のような和服が復活しました。
着物姿の娘達 新版引札見本帖.第3 国立国会図書館デジタルコレクションより
鹿鳴館時代に“洋服”を着た女性は、ごく一部の高級官僚婦人や超富裕層の今でいうセレブの人たちだったのです。
男性は断髪令の発令により髷を落として洋髪となりましたが、警官など制服で洋服を着ている人も家に帰れば着物に着替えてくつろぐというのが一般的だったようです。
着物を誂える母娘 新版引札見本帖. 第1-6 国立国会図書館デジタルコレクション
裕福な家庭ではやはり着物を誂えることのほうが自然なことでした。
しかし時代背景としては明治政府の日本近代化政策により、鉄道開業や日刊新聞の発行、富岡製糸工場の設立などにより国家の近代化が進んで行きました。
このようにインフラの整備が整い始め情報が庶民に伝わり始めると、それに応じて産業も今までよりも急速に発展し始めていったのです。
上掲の引札にもあるように、女性が振り返って着物姿を確認している鏡は、それまでの日本には無かった大きな鏡がついた西洋家具です。そのそばにいる少女の髪型も今までの日本髪のそれとは違っています。
このように引札にはそのときの最新の情報が描かれていたのです。そしてこの引札を受け取る人々は時代の先端を感じていったのです。
明治時代の人々の暮らし油屋の女性と店員 新版引札見本帖..第2 国立国会図書館デジタルコレクションより
こちらは油屋が描かれた引札です。江戸時代の中期頃から物流の発展に伴って高価であった菜種油の値段が下がり、庶民にも夜間に行灯などで明かりを灯すということが広がりはじめました。
明治時代に入ると徐々に“ランプ”が広まり石油を使うようになりました。油屋が長者番付に載ることもあったようです。
この引札を見ると右側の福助の置物の前にお餅が備えられています。年末の様子でしょうか、菜の花を模した丸枠の中には店の繁盛した様子が描かれています。
そのように忙しくても男性は着物の裾をまくりあげ、女性は着物姿にたすき掛けをして裾も動きやすいようにたくし上げて働いています。
油屋の女性と店の者 新版引札見本帖.第2(部分) 国立国会図書館デジタルコレクションより
石油ランプを磨いている店の息子と思われる男子の服装に注目してみると、洋シャツの上に着物という和洋折衷の姿です。外国の文化が日本に怒涛のごとく導入されるにつれ、こうして少しずつ洋服が庶民のあいだにも浸透していったのです。
女学生の服装の変化袴姿の女学生 新版引札見本帖. 第1-8 国立国会図書館デジタルコレクション
明治時代も中期頃になると、人々が座ったり立ったりという動作が生活の中に増えてきます。その主たるものとして学校や公的職業に就く人々の“椅子と机を使った生活”が挙げられます。
着物姿で椅子と机を使うのに一番困るのは“裾さばき”です。
椅子から立ち上がる・座るという動作はどうしても裾が乱れます。そこで学校でも“袴”を着用することを薦めるようになります。
その袴は“女袴”と呼ばれ、男子の袴と違って股に仕切りのないスカート状の袴で、背中に腰板はなく色は主に“海老茶”という色でした。
この女袴は“下田歌子”という女性が考案したものです。
下田歌子は武家の娘で18歳の時に女官に抜擢され、その人格と優秀さから昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の寵愛を受け宮廷で和歌を教えていました。
その後、明治天皇の子女達を皇室の伝統を重んじつつ、しかし海外の賓客と接しても恥ずかしくない、時代に適応した皇女として教育するという使命を受け、欧米教育視察のためにイギリスへと渡航します。
歌子は帰国後、「日本が一流の大国と成らん為には大衆女子教育こそ必要」との意思のもとに、女性教育へ人生を捧げます。
そのようにして登場した女袴は、裾の乱れを気にすることなく袴姿で颯爽と行動する若々しい女学生を生み出し、その姿は新しい時代を象徴するものとなったのです。
上掲の引札に描かれてる自転車に乗っている袴姿の女学生は、ヒールのある靴を履いています。ここにも和洋折衷が見てとれます。
このような女学生は“ハイカラさん”と呼ばれました。これは女学生を批判的に見る言葉でもあったのです。『生意気』『おてんば』と呼ばれ、女性は着物でしとやかであるべきという考えがまだ根強くありました。
日常的に着物を来ていた日本人が何故洋服を着るようになったのか、明治時代の「引札見本帖」に探る(後編)に続きます。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan