初婚はなんと7歳!2度の結婚、夫・息子との死別・・・徳川家康の孫・千姫の悲劇の人生【後編】 (2/2ページ)

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忠刻が婚姻相手として急浮上した理由は諸説あります。1つは、忠刻の母・熊姫(ゆうひめ)が本多家に有利な婚姻を結ぶために懇願した説。

もう1つはなんと千姫が東海道中でイケメンの忠刻に一目惚れして、その恋を家康が叶えてあげたという説です。

真偽は不明ですが、そんな噂も立つほど千姫は忠刻と仲睦まじかったのです。

つかの間の幸せとさらなる悲劇

婚姻の翌年に本多家は移封になり、千姫も共に姫路城に入城。化粧料として10万石(現在の価値で数十億~数百億円)もの大金を持って嫁した千姫は、それを財源に姫路城西の丸化粧櫓を建てました。

そして元和4年(1618年)には長女・勝姫が誕生。さらにその翌年、長男・幸千代が生まれ、千姫の人生で最も幸福な時を迎えます。ところが、そんな穏やかな日々は長くは続きませんでした。

長男の幸千代がわずか3歳で早世、更には寛永3年(1626年)5月、最愛の夫・忠刻が病で亡くなってしまったのです。

それまで徳川家の安泰のために利用され続けてきた千姫でしたが、この時ばかりは自らの強い意志を通し、出家したのでした。

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